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国際相互理解促進事業報告

 ◆【2】北方圏交流新時代―新千歳‐ヘルシンキ線就航に向けて  

 調査研究部 森内 壮夫

 

【北方圏構想とは】

 

 フィンランドの調査取材に入る前に、北方圏構想を改めて振り返ってみることとしたい。

 

 「われわれは今まで狭い地域のなかで物事考えすぎてはいなかっただろうか。――――こんにち国際化時代といわれながらも、国々はそれぞれの国境や政治体制や社会構造の違いと壁を持っている。それはインターナショナルに考えているからであり、さらに次元を高めてグローバルに眺めれば、そこには国境も政治社会体制の相違もなく、ただの太陽系の惑星とのみ存在するのである。そうした発想の転換こそが私の主唱してきた『北方圏構想』であり、『北方圏へのグローバリゼーション』である。――――そこから隣人愛がはぐくまれ、学術や文化、スポーツの交流が生まれ、やがては産業、経済の交流の道が開け、相互繁栄へとつながることであろう」

 

 1972年11月季刊北方圏(当時はHOPPOKENではなく「北方圏」と漢字だった)巻頭言からの引用だ。「北方圏へのグローバリゼーション」と題された巻頭言の作者は北方圏調査会長の堂垣内尚弘・北海道知事(当時)である。

 

 北海道総合政策部は「北海道国際化の意義」の中で開拓時代以降の北海道の国際化を振り返り、北方圏構想の意義・評価について以下の通り総括している。「北方圏構想の成果は道民の暮らしの中にさまざまな形で反映されている。例えば、歩くスキーやカーリングなどの冬季スポーツ、全道で開催される冬のイベント、寒冷地用の高気密住宅の発達、地下街の形成など地域づくり、街づくりにも影響を与えている。北方圏構想は、北海道として初めての国際戦略として評価される。すなわち、本道が抱える様々な課題を気候風土など類似した条件にある海外にその解決方法を求め、その交流成果を具体的に地域づくりに反映していった。現在、道が検討を進めている自主・自立化推進プランとも符合する『北海道自立運動』であったと言える」

 

「北方圏構想」というワードは堂垣内尚弘道政時代の1971年度にスタートした道の第3期総合開発計画に初めて盛り込まれた。その考えは「積雪寒冷など北海道と気候や風土の類似している北方圏の諸地域に住む人々が、国境や言語の壁を越えて、生活や文化、学術、 スポーツ、産業経済など各般の交流を通じて、生活の知恵や技術を交換し、相互の地域の発展を図ろうとするものである」と定めている。この構想を読み解くカギは「交流」である。北方圏地域はアラスカを含むアメリカ北部、カナダ、北欧諸国、ロシア極東・シベリア地域、中国東北部などが含まれる。

 

 北方圏構想が出現した時代背景として、中央との従属性の強い経済構造からの脱却をめざし、新たな発展の方向性を見出すため行財政面における自立を達成する機運が高まっていたことが挙げられる。堂垣内知事は弊誌の23号(1978年)のインタビューで「開拓以来の中央から持ち込まれた南方志向の発想を、北海道の風土に立脚した北方志向の発想へと道民意識の転換を求め、北国である北海道の特性を生かした地域づくりを目指していこうとする。それが『北方圏構想』」と語っている。この時期の稲作の冷害、北洋漁業の不振、炭鉱の閉山などによる経済の低迷も、パラダイムシフト=価値観の転換を促す作用に拍車をかけたと見ることもできるだろう。グローバルな視点でも東西の壁が立ちはだかり冷戦の緊張が依然と続く最中、オイルショック前夜、日中国交正常化直後という激動の時代と重なる。『北方圏構想』という旗印を掲げ、北方圏諸国との交流を通し、国からの財政資金への依存体質を改め、自立的な北海道を築こうという、スケールの大きな気概だったのだ。

 

北方圏構想の推進母体としては1971年に発足した北方圏調査会(毎日新聞社が大きくかかわった)から始まり、72年には北海道開発調査部のなかに北方圏調査室が設置され、76年に北方圏情報センターを併設。78年に北方圏調査会は(社)北方圏センターとして発展的に改組し、2011年に(公社)北海道国際交流・協力総合センター(HIECC)に名称を変更し、現在に至っている。名称変更を経て、北方圏センターは調査研究部内に内部機関としておかれている。

 

 

 


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