公益社団法人 北海道国際交流・協力総合センター
HIECC/ハイエック(旧 社団法人北方圏センター)
Hokkaido International Exchange and Cooperation Center
令和5年度海外派遣研修
PDF版は下記からダウンロードください。
https://www.hiecc.or.jp/archive/r05kaigai.pdf
フィンエアー新千歳―ヘルシンキ線就航記念~ペッカ・オルパナ駐日フィンランド大使講演・パネルディスカッション(第3回北方圏講座)
PDF版は下記からダウンロードください。
https://www.hiecc.or.jp/archive/2019fin.pdf
新千歳―ヘルシンキ線初便発着のタイミングに合わせて12月17日にオルパナ大使が講演した。ハイエック、道、道フィンランド協会の共催で行われ、会場となった北洋銀行セミナーホールには120人以上が詰めかけた。以下、講演要旨。
冒頭の開会の挨拶-近藤裕司氏(北海道総合政策部国際局長)
本日は、年末のお忙しい中、北方圏講座にご参加いただき感謝致します。
北海道では、1970年代に「北方圏構想」を掲げ、1980年のカナダ・アルバータ州に始まり、中国・黒竜江省、アメリカ・マサチューセッツ州などの地域との友好提携などに基づく取組を推進してきています。
例えば、来年友好提携40周年を迎えるカナダ・アルバータ州との間では、両地域の大学や博物館の学術交流、カーリングなどのスポーツ交流、高校生の相互派遣などの交流の積み重ねにより、道民の国際化意識の醸成などに一定の成果を出しています。
一方、こうした取組を具体的な経済交流に結びつけることは、なかなか難しい状況にあったところ。西暦2000年前後からは、道の国際施策についても、経済成長が著しい東アジア・アセアン地域との経済交流にシフトしてきた経緯があります。
その後、アジア地域との航空路線が拡大し、インバウンドの誘致や道産品のプロモーションなどにより北海道ブランドが浸透、定着しつつあり、例えば、北海道のパウダースノーは、アジア地域のみならず、欧米においても認知度が向上してきています。
こうした中、昨日、念願であった北海道から欧州への航空路線が就航しました。
北海道から欧州への航空定期便については、1997年に就航したKLMオランダ航空がその5年後に廃止となりましたが、現在は、通信のデジタル化やSNSなど情報発信手段が多様化しているほか、アジア地域との経済交流などにより培ってきた北海道ブランドが世界レベルに広がってきているなど、当時とは取り巻く状況が大きく変わっています。
今回のヘルシンキ線の通年運行は、北方諸国との具体的な経済交流につながる大きな一歩。道としても、ヘルシンキを起点とした欧州諸国との交流も見据え、この路線が安定的に運行できるよう、北海道の魅力の発信や道内外からの利用者の拡大などに積極的に取り組んでまいる考えです。
また、北方諸国との関係では、北極海航路の実用化に向けた取組についても期待が寄せられており、昨年、札幌市において北極海航路に関する国際会議も開催しています。
現在、フィンランドの企業を中心とする北欧から北極海を経由して日本を含めたアジアへ最短距離で海底ケーブルを結ぶ国際プロジェクトが進行し、日本においても2か所のケーブル陸揚げ局の設置が検討され、北海道の冷涼な気候は、データセンターの空調コストの低減にも貢献できるものであり、道としては、道内にこの陸揚げ局が設置されるよう誘致しているところです。
こうした北方諸国との航空、海上交通、通信インフラの整備は、今後の北海道経済の活性化に向けた重要な要素。道としては、これまでのアジア地域との経済交流に加え、北方諸国との経済交流の促進に向けた取組を加速していくことが必要です。
こうした中、フィンランドと北海道は、気候風土や人口規模がほぼ同じであることなど、類似性が多い。1997年から始まった札幌医科大学とヘルシンキ大学との研究者の相互派遣といった大学間の交流や、北海道経済連合会などと連携して取り組んだ北海道産業クラスター構想に関し、先進事例としてフィンランドの取組を参考とするなど、北欧の中でも本道との関わりが深い地域です。
また、1976年に設立された北海道フィンランド協会は、アイヌ文化やノルディックウオーキングなどの文化・スポーツの紹介、フィンランド語講座、フィンランドの生活、文化に関するセミナーの開催など幅広い活動を行っており、今回の就航を契機に、こうした道民による取組がさらに活発になり、両地域の交流促進の後押しになるものと期待
しています。
本日は、オルパナ・フィンランド大使から基調講演をいただいた後、今後のフィンランドとの交流やフィンランドをハブとした欧州地域との交流の推進に当たっての視点や可能性などについて、有識者の皆様にパネルディスカッションを頂きます。
フィンランドを始めとする北方諸国との交流について、皆様とともに考える、絶好の機会ですので、最後まで、どうぞよろしくお願いします。
「国境を越えた北海道=フィンランドのパートナーシップ強化」-ペッカ・オルパナ駐日フィンランド大使
本日は、このようにたくさんの皆さんにご参加をいただき心から感謝を申し上げます。またこの度のフィンエアーの直行便就航をお祝い申し上げます。今回、就航した新千歳~ヘルシンキ間の8時間18分は、シンガポールまでの飛行時間とほぼ同じ。
私たちは北極圏に住み、春夏秋冬、四季があり、多くの面で北海道と類似点がある。
似ていることが多いのは、国を結びつける強いものではないか。
そして、フィンランドは、まず、EU加盟国であり、ユーロ圏の一員。
北海道から非常にアクセスがよい所に我々は住んでいる。
そしてヘルシンキからは、列車で2、3時間でサンクトペテルブルクにたどり着く。
また、忘れてならないのは、北海道とフィンランドとは人口規模が似ていること。
我々の所は、人口は550万人で、北海道とほぼ同じ人口規模。
私たちの国が位置している場所は、その位置から生まれる気候や自然が非常にこちらの環境と似ている。これはヘルシンキで撮った写真で、湖、それから森、雪などが非常に美しい。
フィンランドの経済状況は非常に良好で、日本の1人当たりの総生産額と同じ額を生産している。それから、2年連続で国連の幸福度ランキングで1位の国となっている。
この幸福度ランキングだけでなく、様々なランキングで、フィンランドは上位に位置し、今朝のニュースでは、ジェンダー平等の分野で3位を獲得している。残念ながら、日本はちょっと下位の方。
先週、選挙で34歳の女性首相が誕生。このことからも、フィンランドの力をお感じいただけるかと思う。
今年はフィンランドと日本の外交100周年に当たる、様々な行事が行われている。
先ほど聞いたが、今年の雪まつりで、フィンランドの大聖堂を作ったことを聞き、非常にうれしく思っている。この二つの国の関係が、益々より良いもの、グレードアップし拡大し、広範囲になっていくのではないかと思う。
国の関係が強まりつつあるのは、やはり私たちが共通の価値観を共有しているからではないか。例えば、民主主義、法の支配、それから人権、法に基づく国際秩序といった価値観をお互いに共有している。
日本人とフィンランド人は似ていると思う。特徴も世界観も似ていると思う。
それを体現しているのが在フィンランドの大使の村田さんで、Pで始まる三つの単語があるが、まずはpunctualityで時間を守るということ、それからpatienceで忍耐強いということ、それから三つ目がprudenceで慎重である、あるいは分別を持つといった、このことに非常に代表されるのではないか。
それから、簡素であること、これも共通している。また、クオリティーを求めること、それから鍛錬とか規律を好むこともそう。
日本人は、フィンランドからのものが大好きです。例えばムーミンとか、デザイン、音楽、サウナといったもの。それから、日本人とフィンランド人は、非常に信頼関係を築きやすいということがある。それはビジネスにおいても、他の面でも言える。
政治的な関係も良好。2016年には安倍首相とフィンランド大統領との間で戦略的パートナーシップが確立され、このとき私は外交官であったが、その時に定期的な閣僚同士の訪問や対話が多くなされている。
それから、貿易は記録を塗りかえるような数字でどんどん増えている。
フィンランドに日本の会社が様々な分野で進出してきている。イノベーションとか、カルチャー、ビジネス、エコシステム、スタートアップなど、フィンランドにビジネスでやってきて、新しく起業をしたり、スタートアップをしている状況を目にしている。
それから、ビジネスといえば、この2月に日本・EU経済連携協定、EPAが結ばれたので、ビジネス環境が整った。さらなるビジネスの拡大を期待したい。もちろん、ヨーロッパと日本だけではなく、アジアの他の国ともです。
そして、我々の外交関係の拡大の背景として最も重要なものは、飛行機による接続。
夏場だけでもフィンランド航空とJALで週に45便の接続があり、この飛行機による接続は、我々の外交関係を拡大する上で非常に重要。
今回、札幌とヘルシンキを結ぶ直行便が就航されたので、我々が北海道とどうやって関係構築を図っていくかは非常に重要。これから関係をどうやって深めていくのか、そんなことを話すために、きょうはこちらに来た。
また、これまで築いてきたフィンランドと北海道の結びつき、協力関係を忘れてはならない。これまでも非常に強いもので、今ももちろん強く、恐らく日本のどの都道府県や地方と比べても、北海道との結びつきが一番強く、強いままであることを未来に期待したい。
それから、私たちのフィンランドと日本のこの強い深い結びつき、これがいつに遡るかをご存じだろうか。18世紀まで遡る。当時、ロシアに渡った大黒屋光太夫が、フィンランド人の親子、エリクとアダム・ラクスマンに助けられたというエピソードがある。
このエピソードについては、また後の話に上るかもしれないが、近年は大学同士の協力関係が非常に重要で、強いものになっている。多くの大学、中でも北海道大学との協力は非常に重要。
それから、1976年に設立された北海道フィンランド協会。これまで、何十年もの間、本当にすばらしい様々な活動を力強く推進されたことに、私自身、本当に感心している。
そして、1973年に設立された名誉領事館の存在も忘れてはならない。日本とフィンランドの橋渡し役として関係者を支援しながら支えてきてくれた、本当に北海道にあるフィンランドの手となって我々を支援してくれた。
全ての偉業や業績は、これまでも、今も、そしてこれからも常に個人によってなされる。個人が何かをきっかけにして始めて、そして事を起こす、そして最後には達成される、個人として、この部屋の中にも、多くの方々の名前を申し上げて、お礼を申し上げなくてはならないが、会社の代表として、それから組織や公的機関として業績を残してくださったことを感謝申し上げる。そして、多くの方の中でも、今日は、12年間という長い年月、北海道フィンランド協会会長であり、最近退かれ井口光雄氏、それから領事館の横山清氏に感謝を申し上げたい。
これからは、今、北海道とヘルシンキを結ぶ直行便が開始されたので、これからどんなふうに我々は一歩前に前進したらよいのかについて、皆さんとともにお話ししたい。
この講演の内容は、私が北海道に着く前に、私が知っていた北海道に関する知識をもとに作成したのだが、これからのお話しが、後でパネルディスカッションの時に何か題材になり、実りある討論ができたらと思う。
私が思う最も重要なことは、大学同士の結びつきをこれまで以上に強いものに拡大し、広範囲にしていくことが大事。
北海道大学の欧州オフィスがヘルシンキにあり、我々フィンランド側の共同北海道事務所が北海道大学内にあるので、既に確固としたプラットフォームがつくられている。
学生交流は非常に大事。先ほど東京のフィンランドチームでお見せした40人の中の3人が、この北大の学生担当として業務を行っている。フィンランドから学生が来て北海道大学で勉強すること、また、逆に北海道大学からフィンランドに来て留学することは非常に重要で、これからも長く継続されることを希望する。
この大学間の協力、大学だけにとどまらないことが重要だと思う。先ほど多くの日本の企業がフィンランドに進出してきていることを話したが、大学だけでなく、例えば研究施設、イノベーション、ビジネス、エコシステムといった分野での交流あるいは協力が必要。
既にこういう協力体制や共同研究はあるのだろうが、多くの新しい分野がまだあると思うので、こういう協力案件や協働体制が新たな分野にも進出していくことが良い。
先週、デモラという会社の代表と話をしたが、この会社のグローバルオフィスが北海道大学にあるということを聞いて、そこを拠点としてネットワークを構築していて、大学だけではなく、各会社、それから学生をつなげてプロジェクトを実施したりしているということを聞いたので、非常に興味深く有益なことだと思った。
それから、市民社会を安全なものにすることは非常に重要。北海道を初め、札幌市も、どんな形でフィンランドを市民や道民に紹介したらいいかを考えて頂き、是非とも、多くの人たちに教えていただきたい。
このビジネスを通じた繋がりはとても強いツールとして、多くの新しい分野に進出していく際に非常に有効。今朝、札幌市長とお話しし、札幌市から来年1月にビジネスのリロケーションで代表団を派遣するというお話があり、既にこのビジネスのリロケーション(移転、再配置)、ビジネスを移すことが始まっていると思い、非常に心強く思ってた。
このリロケーションを巡っては、多くの助けになるものがあることを強調したい。
例えば、行政からの支援、大使館からの支援、それから、東京にあるビジネスフィンランドからのヘルプもあるし、もちろんヘルシンキも応援する。また、ジェトロともよい関係を築いている、協力が得られると思う。多くの新しい分野で、北海道とフィンランドの間で、例えば領事館もあり、北海道からフィンランド、フィンランドから北海道へビジネスを移すときには、多くの方々、関係者たちが支援してくれると思う。
それから、どの分野で新しいビジネスを始められるのか、ここで言えれば、具体的にお話ししたいが、世の中は新たなことがどんどん出てきて追いつけない。急激に状況が変わるので、ここでこの分野が新しいとか、この分野に進出できるとか、もう早期に判断が出来ないことがあるので、この分野だったら進出できると正確に言うのは非常に難しく世の中の情勢があるということをお話しする。
もしかしたら、後ほど、私の頭の中にあるこの分野だったら、新しいビジネスが進出できるとか、何か新しいことを始められるということをお話しできたらいいと思うが、ここで強調したいのは、ビジネスチャンスは非常に大きいということをお話ししたい。まず、大学、会社、それから研究施設の人たちが一緒になって何か話をして、その中で分析をして、そして何かを広げていくということが重要。
北海道の会社や研究施設などがどうやってイノベーション、ビジネス、それからエコシステムにかかわっていくかということがこれから重要。
それから、もう一つ重要なのは、我々が今使えるものを何でも使うということ。
あるものを有効利用するということ。例えば、北極海の北極圏にあるもの。この北極圏にあるものは、まずは観光から始められるのではないか。
フィンランドは非常に安全で、そして訪れて本当に心地がよい国。特に日本人、その中でもまだ訪れたことのない人にとっては、フィンランドを初めて訪れて、本当に楽しめる国だと思う。
そして、日本とフィンランドには、類似点がたくさんあるということ。会うと非常に心を打ち解け合う快適な関係が築けるということ。そして、親しみを持てるということ。
日本を有名にしている様々な特徴があると思うが、日本文化だったり、その他たくさんあると思うが、そのような日本を魅力的にしていることが、フィンランドにも同様に当てはまり、フィンランドにも、フィンランドを魅力的な国にしているものがたくさんある。
ここに載せた写真は、私が日本人あるいは北海道の人たちにとって興味があるのではないかと思ったものを載せた。
観光の利点は何かというと、人が今まで行ったことのない国を訪れて、そこで何か自分が経験したことをもとに何か違うことができる、人生の中で、積極的にこの旅の経験を糧にして何かを築き始めることができるということ。
先ほど、どのような分野で新しいビジネスを始めることができるかというお話をしたのだが、私の頭の中にある新しい分野の一つがサステナビリティー。持続化であるが、これは日本にとっても、フィンランドにとっても、これからの分野なのではないか。
このスライドは、フィンランド語で書かれているが、どのような分野でフィンランドと協力関係を持つことができるかを示したビジネスフィンランドによるプログラムの一覧であるが、日本では、ジャパンの下に書いてあるこの分野で協力関係が可能ということ。
そして、日本ではもっとフォーカスしたことを、既にほかの国よりもビジョンがありますし、実際に具体的に活動していく分野もある。先ほど、近藤局長から、海上の話題として北極海から海底ケーブルでヨーロッパと日本を含むアジアを繋げるという大きなプロジェクトについてお話があったが、私が知っている所でこのプロジェクトはもう既に実際に動いており、非常に大きな成果を私たちに与えると思う。
我々のこの北海道とヨーロッパの関係が特別なものになるということ。
私が考えている幾つかの分野のうちの一つが、この輸送、つまりモビリティー。広範囲の意味でのこの輸送も、これからの新たな取り組みが期待される分野の一つである。
また、気候変動が原因で北極海の氷が解け始めていて、これが、これまでにない速さでどんどん進み、これまで遠いと思っていた距離が短くなり、これまで使っていた中東や他の長い距離を使ったルートよりもより安全で短いルートが可能になることは非常に重要な点なので、どうやって活用していくか、これはまだ私には分からない。フィンランドがどのような利益を得られるか、そして北海道がどんな利益を得られるかも、船がどうやって荷物をおろすか、そういうインフラがどの程度整備されるかがまだ分からないので、これから注目していきたい、そして、この船運。船を利用した運送の技術あるいはノウハウは、私たちの国フィンランドと北海道がこれから注目し、新たに進出していく分野の一つ。
このトランスポート。運輸という分野は、もちろん船だけの運送ではないので、例えば自動車だったり、それから人を移動して、ある一点から次の地点まで移動させるモビリティーサービスだったり、それからスマート運輸であったりといろいろある。
北海道とフィンランドは、とても気候条件が似ている、フィンランドと北海道を例えばスマートソリューションとか、それから他の運送技術とか、スマートエネルギーを実証するための試験場にしてはどうか、そんなふうにして使えるのではないかと思っている。
私がこうして話していることに関しては、本当に答えはない。私も答えは持ち合わせてはいないが、これらの分野が、私たちフィンランドと北海道が一緒になって何か調査をして、そして進出の可能性を探っていける分野なのではないかと思っている。協力をする共通の場所として。共通の分野として。
そして、先日、気候変動に関するCOP25がマドリードで終わったが、余り楽観視できない結果になってしまった。この気候変動、地球温暖化は、止めなければならないので、これからのエネルギー転換、化石燃料からの転換等を考えていかなくてはならない。
北海道とフィンランドにはたくさんの類似点があり、例えば、我々が共通に持っている森林、森林から出るバイオマスを利用したエネルギー転換なども考えていけると思う。
エネルギー転換の話でこの森林であるが、我々の国の森林業は、今、ちょっと変わりつつあることも申し上げておく。木を使わずに化学的なものを買う人たちがふえているので、生産状況が変わっている、森林業を取り巻く状況が変わってきていることもある。
このバイオマスの利用に当たっては、新たな時代がやってきたわけで、このインフラをめぐる新たな時代がやってきた。北海道とフィンランドは、どんなことを一緒に協力してやるにせよ、ビジビリティー、目に見える、可視化というものを大切にして、北海道の中のフィンランド、フィンランドの中の北海道というものを見ていきたいと思う。
昨日と今日、ばたばたと過ごしてきたが、ここで改めて、フィンランド協会、名誉領事館が中心となり様々な行事を計画してくださり本当にありがとうございます。
これから直行便ができたことにより、フィンランドと北海道のこの結びつきが益々強く可視化されるのではないかと思う。もちろん、その一つのツールが観光である。
最後にお話ししたい。北海道に来る前にさまざまな団体と話をしたが、いろいろな団体が協力関係を求めている。一つは、先住民に関する団体。例えば、私の妻はラップランド出身で、サーミ族ではないが、サーミ族と非常に親しくしている。アイヌの人たちとサーミ族との協力関係といった先住民族文化の分野でも、何か一緒にできるのではないか。
これが森林の写真。講演のタイトルが国境を越えてということだったが、余り国境を越えるというお話はしなかったが、今、直行便ができたので、ぜひフィンランドをハブとして様々なヨーロッパにも目を向けていただきたい。
もちろんフィンランドとの協力関係も大事であるが、例えば、2国関係だけではなく、フィンランドを足がかりに、例えば、サンクトペテルブルクまで汽車で数時間で行くことができるので、ロシアでは1万5千人のフィンランド人が働いているが、そのロシアとの交流の足がかりとしてもいいし、様々なチャンスが待っている。
この写真、今年は非常に忙しかった、来年も非常に忙しい年になりそう。このような木を使った建物が大使館の敷地に建つ予定。これは東京オリンピック・パラリンピックに合わせて6月には完成する予定で、オリンピックの間中はここを迎賓館のような感じでお客様を迎える場所とし、その後は、今年中一杯、ここでフィンランドの会社や、様々な研究施設や団体の何か業績を見せる場所として、見本市のような場所として使う予定。
日本で、余り大々的にマルチメディアを使ってフィンランドのことを見せることはしたことはないが、この場所を使いビジネスだけではなく、文化的な行事を開いていきたいと思っている。
クリスマスが近いので、どうぞ楽しいクリスマスと新年をお迎えください。サンタクロースは、フィンランドから来たもの、サンタクロースの写真で最後を飾りたいと思う。
ありがとうございました。
パネルディスカッション
パネルディスカッションでは井口光雄氏(北海道フィンランド協会名誉顧問)=民間交流の歴史、白石薫氏(日本貿易振興機構地域総括センター長)=ビジネス展望、伊藤昭男氏(北海商科大学教授、北海道地域観光学会会長)=地域づくり、木本晃氏(北海道21世紀総合研究所特任審議役)=観光、をテーマにそれぞれ発表し、高田喜博氏(ハイエック客員研究員)の進行でディスカッションを行いフロアから質問を受けた。以下は発言要旨。
井口光雄氏(北海道フィンランド協会名誉顧問)
皆さん、こんにちは。井口です。
最初のスピーカーとして、フィンランドと北海道についてお話しします。前段で大使にお話をして頂きました、実は、今出ているこの絵の前に前段がありますが、多分大使が話すのではと思い、1700年代の最後にロシアの使節としてフィンランド生まれの使節団長が来た。大黒屋光太夫さん。ですけど北海道とフィンランドが、いわゆる人と人。触れ合いを持ってスタートしたのは、多分、私の知っている限りこれではない。
実は、1916年に、フィンランドの福音ルーテル教会のミッショナリー、宣教師さんが5歳で北海道へ来ました。数年間札幌におられ宣教活動を始めた。ですから、札幌市民とフィンランドの人が話をし、触れ合った最初の機会だろうと思います。
その後、ちょっと時間が経ち、1934年に福音ルーテル教会が札幌にできました。
今、歴史的な建物としても有名で、皆さんも一度は行ったのではないかと思います。
2年後に附属のめばえ幼稚園が出来ました。実は、HIECCの佐藤会長さんは、めばえ幼稚園の卒園生です。
時代は、またぐっと変わります。1970年代、皆さんよく知っているのは、やはり札幌オリンピックが1972年で、70年代に北海道ではフィンランドを含めた北方圏の交流がスタートします。火つけ役は、当時の知事になったばかりの堂垣内さんでございますが、我々は親しく、常に堂さん、堂さんと言っていましたが、堂垣内さんの呼びかけもあり、北方圏交流が始まりました。
私が直接関係したのは、1973年に私も関係して発足させた青少年のための財団。
そのプログラムとして、北海道の青年たち三十数名を連れて北欧の科学文化の様々な施設を見学、視察して参りました。そのときに考えたのが、やはり若い人たちには、フィンランドに限らず、向こうの家庭に1回泊めよう、ホームステイさせよう、そういう気持ちが出来、フィンランド、スウェーデン、ノルウェーにコンタクトしました。その時、オーケーと言ってくださったのが、フィンランドの日本協会。その時の会長さんはアルヴォ・サヴォライネンさん。アルヴォさんは、くしくも1916年にミッショナリーとして北海道にやってきた最初の人なのです。その息子さんが、当時フィンランド日本協会の会長だったので、そういうご縁もあり、非常に歴史的な繋がりを感じております。
そこに行ったことで、若い人たちがフィンランド家庭に三十数名が泊まって、フィンランドとのつき合いがここで始まったと私は思っています。
その2年後に、サヴォライネンさんから、フィンランド日本協会が40周年のお祝いをすると。その時に既に40年間、フィンランド日本協会はあったわけです。その経緯は時間がないので省きますが、アルヴォさんから、その時北海道で一番力のある人、将来に繋がる人を何とか連れてきてくれということで、当時、教育大学の先生だった伊藤隆一先生と、やはり北方圏の提唱者である堂さんを引っ張っていこうということで、堂垣内さんに教えたら、いいよと言ってくれて、奥さんと一緒にフィンランドへ行ってくれたというのが北海道のトップがフィンランドへ行った多分最初だと思います。
これはもう我々、伊藤先生とは、ちょっと早く行って空港でお迎えしたのですが、フィンランドのヘルシンキ・サノマットとか、著名な新聞が一斉に書いてくれまして、あの頃、まだ、日本もフィンランドも、今のようなマスコミのつき合いもない、SNSもないそんな時代ですから、余りお互い知らなかったのですが、一気に北海道という名前も知られるようになった。札幌は、オリンピックがあったのでよく知っていたのですが、北海道のことは札幌より全然知られていなかった。ですから、これによって北海道、そして札幌ということが知られたわけです。
今日この後、あると思いますが、そのとき、伊藤さんがフィンランドのさる財団を紹介し会ってもらいました。その財団は、ヘルシンキ大学の医学部のスポンサー筋の有名なパウロ財団でそことお話をしていただいて、北方医学の交流を始めようと。北方医学を研究する若い人たちも交流しようという話し合いが、そこで基本的にまとまりました。そして、2年後、正式にスタートして今日に至っております。
もう一つ、これも大事なことで、この真ん中で何か教えている人、彼はピヒカラさんといって、当時グリーンランドよりもっと北にある、グリーンランドと言うけれども、緑のない北の島ですが、そのグリーンランドをひとりでクロスカントリーのスキーをはいて横断した、フィンランドで非常に知られた方です。その人にも会ってもらった。
そして、北海道へ来てくれということで、翌年の2月、北海道に来てくれました。
ここに左に写っている今村源吉さん、教育大学の旭川の教授ですけれども、源吉さんに常に付き添っていただきまして、これは知事公館に来たときに堂さんに一生懸命スキーを教えたのですね。クロスカントリースキーです。
大使にクロスカントリースキーをどこでやったらいいかと言われたのですが、北海道に本当にクロスカントリースキー、それも鼻水を垂らして、10キロ、20キロ、30キロ走るような耐久レースではなくて、スキーで歩きながら楽しもう、体のケアもしよう、そういう発想からスタートしたのがクロスカントリースキーですね。これを歩くスキーと命名したのが今村の源吉先生なのです。
1976年に我々の協会がスタートしました。堂垣内さんもちゃんと来てくれたし、当時の大使、それから、フィンランドから、右の真ん中にいる方がアルヴォ・サヴォライネンさん、あのお父さんが1916年に北海道に初めて布教に来た方です。そして、右が最初の名誉領事さん、ちょっと左にいるのが若いころの私です。
協会がスタートして何をやったか、やはり一つは言葉です。何とかフィンランド語を。私は、その頃は、フィンランド人はフィンランド語しかしゃべれないだろうとの認識でしたが、いずれにしろ国と国のつき合いには、やはり言葉は大事ということで、協会を設立した翌年から始めました。それから食べ物です。フィンランドの人たちは何を食べているのか。北の国のフィンランドですから、北の北海道の人にとっても非常に価値があるだろうということで始めました。
幸いにも、このフィンランド語講座とフィンランド料理をやるに当たって、一つは、ここに写っていますが、日本人と結婚したセイヤさんというフィンランドの女性がいたということ、それからもう一つは、当時、まだ飛行機もほとんど飛んでいなかった時代に、シベリア鉄道を通って、何日もかかって北欧フィンランドへ行って、ヘルシンキ大学で勉強したというすばらしい青年が2人いたのです。そういうこともあって、フィンランド語講座はすごく意欲的にスタートしたのですが、生徒さんがほとんど来なかったのです。
何回か潰れる危機にありながら、フィンランド協会という、こういう公的なものですから、商売は抜きにしてみんなで頑張って今日に来たのですけれども、ここ20年、21世紀に入ってから、どんどんどんどんフィンランドに関心を持つ人が増えてきた。それで、初めは1クラスがやっとだったのが、21世紀に入ると2クラスになり、3クラスになり、何と今年大通公園にヘルシンキ大聖堂ができた。フィンランド航空が入るよと言ってくれた。そして、あっという間に関心は高まり、今年4月からのいわゆる入門講座に何と40人以上、50人近くの人が勉強したいと。嬉しいやら、あんまり公になると税金にひっかかるのではないかと言いながら、今、うれしい悲鳴の中でもみんな頑張って、新しい人たちが途中から逃げないようにして、優しく教えているのが今の講師の水本さん、きょう来ているかどうかわかりませんが、水本さんを中心に頑張って語学講座は進めています。
さっき、ちょっと紹介していただきましたが、先住民交流ですね。
実は、若い頃私は報道関係、テレビの報道局にいたのですが、それから脱線して自立し、この頃は、こういう博物館とか科学館とか郷土館とかそういうところの展示プロデューサーをやっていまして、ここも、アイヌ民族博物館ができるときに声がかかり、このアイヌ民族博物館のプロデューサーをしました。
民族博物館ですから、自分たちアイヌだけじゃなくて、世界的に先住民族はいっぱいいるよと。幸い私の場合はフィンランドですから、じゃ、フィンランドにはサーミという民族がいますと。フィンランドの背景には北欧全体があり、一部にはロシアのコラ半島もございます。さまざまな種類のサーミの人たちがいるものですから、そのエントランスとして、フィンランドのサーミの人たちを3人呼ぶことができました。これが北海道のアイヌの人たちとフィンランドのサーミの人たちの最初の出会いだと思っています。
私どもの協会で幾つかの事業をやっていますが、一番人気のあるのは、5年に1回やっています「フィンランド一日大学」です。この第1回を協会の発足10周年にやったのですけれども、300人近い方が押しかけてくれました。このときは、余りテーマを絞らないで、フィンランドの様々なテーマを取り上げました。
売りは、一日勉強すればフィンランドが好きになるという非常に単純なものですが、それだけでなく、フィンランドに関心を持ってくれた人がこんなにいるんだということを非常に嬉しく思いました。
1989年、当時のコイヴィスト大統領が奥様と一緒に北海道を訪れてくださいました。その後は一度も来てくれません。多分、きょう大使がこれを見られて、よし、大統領を北海道に連れてくると。話題の若い大統領を連れてくるぞと。若い女性の首相もいます。
交流はどんどん拡大しました。皆さんも聞いたことはありますよね、カンテレという民族楽器。彼女は、ミンナ・ラスキネンといって、彼女を1990年の初めに北海道、札幌に呼びまして、我々もお金がないから、僕のうちに2カ月間ホームステイさせて、札幌を初め、道内6都市で演奏とレッスン、それで、日本にカンテレは売っていませんから、あんなちっちゃなね、まだ知られていない。100台、ヘルシンキから送ってもらって、レッスンをやるたびにそれを売りつけながら、全部売りました。そうやって、北海道にカンテレの魅力を伝えたのです。
カンテレは、ここから始まったのですけれども、現在、日本には大勢のカンテレのファンがおります。ですけれども、日本におけるカンテレの中心はやはり北海道であるし、すばらしい指導者はやはり北海道の人です。
例えば、佐藤美津子さんとか、ああ、あそこにいますね。
はい、立ってください。
彼女も、あのミンナからスタートしたのです。もう一人、あらひろこさんとかですね。そういうふうにして、今、日本には、もう燎原の火のごとくカンテレは広まっていますが、北海道からスタートしたということだけは、カンテレのふるさとは北海道、札幌であるという事実は変わりません。
これは、余り普及しませんでしたが、フィンランド野球、ペサパッロといいます。野球ですから、ボールがあって球を打つのですが、中身は全然違うのですね。でも、1980年代の中頃、僕に話が来て、何とかこれを日本に紹介したいというので、向こうからルール本を送ってもらい日本語に訳して、そしてペサパッロチームを作ってきました。
結構面白いもので、昔、草野球をやったという人が結構あちこちから来まして、札幌、旭川、名寄等にチームができました。そして、1991年だったかな、第1回ワールドカップを開くので、ぜひ日本チームを連れてきてくれということで、じゃあ、頑張ろうと若い連中を中心に連れていくことにしましたが、何せ協賛金が1,000万円ぐらいかかるので大変だったのですが、いろいろな企業さんとか、みんな頑張って応援してくれまして、そして、無事ここに行きまして、第1回のワールドカップに出ました。
このときは、第1回のヘルシンキで非常に話題になりまして、翌日の新聞は、優勝候補のフィンランドと日本なのですが、どちらが勝ったのかわからないけれども、とにかくすごかったと。日本からは60人応援に来たんですよ。応援団がみんな日の丸の鉢巻きですからね。あの中には大使もいるんですよ。日本大使、女性の大使です。やはり鉢巻きをつけている。そうして、みんなして応援してくれた。翌日の新聞は、日本一色、試合の内容はほとんど書いていなかった。残念ながら、やはりアメリカンベースボール全盛の北海道ではなかなか浸透しなかった。
ここの下がノルディックウォーキングです。今は皆さん、もうやっている人も多いと思いますが、1999年に日本で最初にやって、これは非常に喜んでもらいました。
もう21世紀に入って、こういうふうに相互交流がどんどん進んでおります。それから、今から10年前、「フィンランド・日本90周年」には北海道の伝統芸能の皆さんを連れていきました。ヘルシンキの旧オペラ劇場です。満員にしまして、これは江差の餅つきばやしです。そういうふうにして、北海道の餅つきばやしと江差追分は、もうどんどん上は、夏至祭に北海道フィンランド協会がみんなで行って、フィンランド日本協会と一緒に盆踊り大会をやり、白夜祭を祝いました。
それで、今年は修好100年で、大通にヘルシンキ大聖堂の大雪像ができました。そして、Kitaraではフィンランドから男性合唱団ESMILAを呼んで公演し、函館では合唱団交流もしました。函館の男性合唱団は、ぜひ来年は向こうで演奏と今頑張っております。
これは最後で大事なことですが、フィンランドには桜公園がございます。しかし、あそこには日本の桜がないのです。ヨーロッパ式の桜です。山桜ですから日本の山桜に似ているのですがない。それじゃ日本の代表として、エゾヤマザクラを持っていこうと。本当は、ソメイヨシノがいいのでしょうけれど、ソメイヨシノは向こうで咲かないんです。あんな南の国のソメイヨシノは。やはりエゾヤマザクラということで、今日来ていると思いますが、うちの井幡さんという元気なお爺ちゃん、頑張ってくれて検査に5年かかりました。種の検査です。そして、去年の暮れに桜の種を送りました。今、向こうで少しずつ芽が生え、大きくなっています。
そして、その桜の大きくなるのをもう待ち切れなくて、ラハティ市では、桜の種をくれということで決まりまして、こうやってラハティで村田大使、左が先ほどアンバサダーが言っていました日本の村田大使、それから真ん中がスキナリ大臣、それからラハティの市議会議員、それから私とでこの贈呈式を行いました。
そういうことで、フィンランドと日本の間では、本格的には1970年代から交流がスタートして、約半世紀が経ちました。こういうふうに、これだけを見ると何か派手なことばっかりやっていると思うかもしれませんが、地味な地味な活動が背後にいっぱいあります。苦労しながらも来まして、これを新たなフィンランドと北海道、いわゆるフィンランド・日本2世紀につないでいきたいと思っています。
ありがとうございました。
白石薫氏(日本貿易振興機構地域総括センター長)
ご紹介にあずかりましたジェトロ北海道事務所の白石と申します。
今、文化面での交流、人と人との結びつきについてのお話をいただきました。
私からは、ビジネス面、貿易、投資の分野で、これからどうあるべきか、どうすべきか、どのような可能性があるかということを視点にお話をしてみたいと思います。
時間も限られておりますので、先にもう言いたいことを言ってしまいます。
北海道のブランドというか、経済交流というのは、今、どちらかというと、これは皆さん、否定しようがないと思うのですけれども、アジアが中心です。アジアのほうが、北海道としての知名度はあると思います。
今後、やはり北海道としても、欧州あるいは北米の方にその方向を変えなければいけない、そちらの方にも力をつけていかなければいけないという状況にあるかと思います。
そういった中で、どのくらいの企業さんが、あるいはどのくらいの人々が北海道を知っているのか。まだまだ実績がないというお話をこれからさせていただきたいと思います。
また、距離がございます。一つの民間の企業さんが、遠い遠い、先ほど9時間という時間の提示がございました。これは非常に魅力的な時間、距離ではございます。それでもアジアと比較するとやはり遠い。ヨーロッパに行くときに十何時間が、9時間で行くというのは、非常に魅力的ではありますけれども、これをどのように克服するのか。そして、ありがたいことに、今回、航空便が就航しました。物を運ぶ手段ができたわけです。
我々はよくお話をしますけれども、鶏が先か卵が先か、荷物があれば飛行機を飛ばします、飛行機があれば荷物を出しますというようなお話があります。大抵、飛行機で、荷物のほうは後なのですね。今回、先に就航していただきました。これは、これから後、多分、観光分野でお話をいただけると思いますが、人との交流が絆になって基礎になっているのではないかと思います。
このせっかくの機会をビジネスとしてどんどん強くさせるべきだと思います。現状、これから先どのように北海道の魅力を発信していくのか、北海道という知名度を欧州でも聞いていただけるのか、そういったものを探す必要があるのではないかと思います。
フィンランドを初め、欧州、ヨーロッパは高いものであっても購入できる、いや、高い品質を持っているものであれば購入するという地合いにあります。今、アジアの方々は、どちらかというと北海道への憧れといった形で北海道を見て、買っていただいている。本当によいものがわかっていただけるというのは欧州、フィンランドの方々でございます。
今、今日この機会に、フィンランドの航空、ヘルシンキ-新千歳便が、直行便が就航したという機会をもって、ぜひ欧州へのビジネス、文化交流、人との交流から経済の交流に繋げられればと思っています。
以上が、私がお話をしたい内容でございます。
その背景をちょっとデータとともにご紹介させていただきます。
北海道の貿易額です。輸入は増えていますが輸出は増えていません。北海道のものは、まだまだ、アジアには行っているようですけれども、アジアでさえ少ない。欧州にもまだまだ行っていないという状況です。
こちらが、そのヨーロッパ、中・東欧、ロシアへの輸出額の推移です。できれば、これは円グラフでお示ししたかったのですけれども、私どもの不都合でこのような棒グラフになっています。ただ、ここで言いたいことは、北海道から欧州に行っている荷物、貨物というのは非常に少ない、いや、少ないからだめだではないのです。これからこれを多くしていきましょうか、いきませんかというメッセージを競っていただきたいと思います。
どんなものがどこに行っているのか。時間もないので、右側のグラフで見てください。そんなに増えていない。輸出量は増えていないのです。これから何とか増やさなければいけない。増やすものをみんなで探さなければいけないのです。
どんなものが行っているのか。せいぜい頑張って水産物、ホタテなのです。北海道の企業の皆様がみずからの意思で出せるもの、北海道には、東京本社あるいは中京圏の本社の企業さんがいらっしゃいます。その企業さんが製造したものが欧州に行くというケースはあると聞いています。ぜひ北海道で本社のある企業さんが、北海道のものを欧州に出していって、欧州との交流を深めていただきたい、そのお手伝いを私どもはしたいと思っております。
輸入です。右肩上がりにはなっていますけれども、まだまだ少ない。どんなものが来ているのか。代表的なものは、多分サーモンだと思います。サーモンがこちらのほうに輸入されている。もっともっと他のものもいいものもきっと現地にはあるのではないか。そういったものを探しに行きませんかということを私はお伝えしたいのです。
北海道の企業の皆さんが進出しているのは、私どもの調査で422拠点ございます。欧州、ロシアへの進出は、あのとおり非常に少ないです。もっともっと欧州にも力を、目を向けましょう。
そして、次のページが出てくると、今後、海外に展開をしたいという企業さんのデータもあるのですけれども、こちらもどちらかというとアジアが中心です。これですね。これは、現在の北海道の企業さんの進出状況でございます。やはり中国、アジアが中心なのです。欧州、東欧というのは非常に少ない。そして、その海外に進出する拠点を設けるというモメンタムというのもちょっと今落ちている中で、何とか欧州を見てほしい。その一つの起爆剤として、今回のフィンランドのフィンエアーの就航というのは捉えられるのではないかと思います。
やはり、これから海外に進出します、どこに行きますかといったときには、アジアの方が中心なのですね。ぜひ右側の丸のところ、欧州は非常に少ないところをもっともっとふやす、そういった取組みが必要なのではないかと思っております。
では、何があるのか。今日大使も、いろいろなことを先に定義づけることはしたくないというようなお話もありましたけれど、例えばITの世界、例えばスラッシュというのが、フィンランドでは毎年開催されているらしいですね。こういったスタートアップ企業を支援する、プレゼンをする機会、ITといえば札幌にも北海道にもその集積がございます。そういった方々が、現地に行って北海道の可能性を発信する、あるいはスタートアップ企業としての魅力を発信する、あるいはヨーロッパの企業、フィンランドのスラッシュに参加された方々に北海道に来ていただいて、北海道には「サウス・バイ・サウスウエスト」という取り組みがあったと思いますが、ああいったところで発表してもらう。そういったことで、ビジネス交流を通じて、この貴重なフィンランドとのコネクション、ルートというのを使って、経済、ビジネスの面でも結びつきを強くして頂ければと思っています。
ジェトロとしては、私ども、皆様方のお手伝いをするためにこの札幌に拠点を置いております。いろいろなお手伝いをさせていただきたいと思います。
私どもは、今年11月8日にロンドンの北海道産品のプロモーションにご一緒させていただきました。現地の人が言った言葉、日本で知っている言葉について、横浜は知っている、どうしてだ、ヨコハマタイヤがチェルシーのスポンサーになっているのです。ここにYOKOHAMA、YOKOHAMA、YOKOHAMAと出ているから横浜は知っている、北海道は初めて知ったよ、いいもの持っているんだね、それぐらいのインパクトのあるようなことをこれから皆さんとやっていければいいなと思っております。
ありがとうございました。
伊藤昭男氏(北海商科大学教授、北海道地域観光学会会長)
私から、時間が限られていますので足早な話になるかと思いますが、私の視点としては、就航で非常に喜ばしいのですが、基本的には問題から入ろうということです。問題と反省を踏まえ、その後どうしたらいいかという流れを確認していかないと、残念ながら、今日ありましたが、KLMオランダ空港が撤退したと。撤退したから、じゃあ次をやればいいという発想ではなくて、どうして失敗したのだと。そこを踏まえなければ、やはりまた失敗はあり得ることで、若干辛口な話になると思いますが、一通りの整理をさせていただきたいと思います。
今、画面に書いてあるのがその話ですが、主なところでは、そのアムステルダムへの直行便がだめでした。それから中国長沙もだめでした。それから、函館空港あたりでは、仁川、ユジノサハリンスク、北京、杭州、西安、天津、復活するようなところもありますが、就航はしたけれど休止したり、廃止したりというところが相次いでいます。
ただ、これはビジネスですから、やむを得ないことはございます。こちらから北海道の人方が乗らなければ、撤退、廃止は当たり前のことだと思います。ビジネスですから、向こうの人が幾ら来てくれても、こちらから行かないのであれば、これは難しいだろうと。
私の経験で言いますと、三、四年前ですか、仕事とか講演に呼ばれたりして、台湾に1年半で四、五回行きましたけれども、高雄便が就航したことで、私も記念で高雄の大学で講演をして、帰りは高雄から直通便で札幌に帰りました。帰りましたら、入国ゲートが開いていない。係員にどうして開いていないのかと聞くと、日本人は2人くらいしか乗っていないから、まだ開けないでいいんですと言われ、私も海外の就航でなかなか経験したことのないような事態が起きたと。今はそういうことはないのかもしれませんが、圧倒的に来るほうが多い。後で出ますが、どうして北海道の人は行かないのだと。この辺の問題は、やはり今回も考えていかなければいけないテーマであります。
それと、海外との姉妹都市提携は、私のほうで大ざっぱにしかカウントしませんでしたが、80くらいの道内市町村はやっている。その他いろいろ、これまで交流してきたのですけれども、調印式をやると、その後、経済とか文化とか教育とか、次のレベルに進まないと。全部が進むことはないのですが、やはり、もう1段ロケットを切り離して、2段目のロケットに行かなければ、交流してもそれほど高い意義はないということです、最後になりますが、はたしてヘルシンキ線は存続できるのかと。そういう厳しい認識からやはり入るべきだというのが、私の意識でございます。
それで、何が不足しているのかということは、1番目は今言ったような次の段階へ進まないということですが、やはりビジネスに進んでいかないということが大きいと思います。
観光の場合、私も最近観光を研究していますが、観光統計はビジネスを当然含んでいます。観光客だけではなくて、ビジネス客も観光しますから、観光統計にはビジネス客が含まれている。圧倒的に東京では多いです。東京は恐らく6割方はビジネス客だと思いますね。それが、観光でカウントされています。
北海道は、そういう点では、観光には行ったり来たりするけれど、それをビジネスと両方やるとか、ビジネス客が行くとか、そこがやはり圧倒的で、富山とかそういう小さな都道府県に、比率で見ますと相当遅れていることは間違いない。
今日、大使から非常にいい話があったのですが、やはりチャレンジする力、それから学ぼうとする力、ちょっとそこが外に向かって出ていない、出切っていない、いろいろなところで大学間の交流もやっていますが、ちょっと全道的な形で広がっていないという部分がある。これは、次の4番目の主体性とか自主性に繋がります。
道民のレベルが低いとは全く思いませんが、残念ながら、意思的依存ということで、明治時代以来、官依存型の体質は今の時代も続いている部分があり、国際交流は行政がやってくれるのだろうというところは、他府県の意識と比較し、やはり多いと思います。
そこをどう変えるかは非常に難しいのですが、でも、今の時代、やはりそこを何とかしていかなければ、これは変わらないということなので、私もいろいろな人と話しますと、いや、お金がないと。行政がやるでしょう、だったら、その後私は行きますと言われ、そうではないということで、一緒に行くならまだわかるのですが、先に行政がやってくれということでは、これは無理な話で、それはどうしてかと何年来考えていますけれど、残念ながら、やはり先行投資、先見性がないということです。目先の方に力が集中してしまう、目の前を頑張らないと倒産しますから、それは分かりますが、どこか遊びの部分というか、コストはどこかを抑えて、どこかを犠牲にして、その分、もし先見性として国際交流には、社運を賭けるとまでいかなくても、先ほど大使の言葉でいいと思ったのは、試験場、私もそういう言葉は好きで、試験とか実験ですね。
ですから、まずは一発でビジネスが成功するわけもないし、観光も上手くいくわけはない、まずは実験でしょう。実験で2回か3回、他国に行ってみて、それで雰囲気をつかんで、それから本当のチャレンジです。数回行って初めて1回というくらいの気持ちでやらなければいけないのですが、1回行って、あ、だめだという意識が強いのではないかと。その辺の反省がなければ先に進みませんし、それから先見性を持って先行投資しなければ、やはり次がないですよね。
幾つかの業界の人と話すときがありますが、先見性を持った人などを見ていると、語弊がありますが、一般に道外の人のほうが意識が高い。何々支店長が面白いことをやっていますねと聞いて、どこの出身の方ですか、私は大阪から来ていますとか、これはどちらが優秀ではなくて、やはり比較しているということ。
比較の視点がない人は、自分の目の前のところがそれでいいということになってしまうので、次の展開が出しづらい、やはり外から自分を見るという部分、それがなければ難しい。
ちょっと大学的に理論みたいなことを整理しましたが、私が二、三年前に書いた論文で台湾の直通便ができたことを札幌の新千歳、函館、旭川、国土交通省からデータをいただいて分析したのがありますが、やはり北海道から人が出ていないです。いろいろ迂回して行っているような形もあるし、それから、どうも内容が余り濃くなくて、ビジネス的なところが弱いというところを感じました。
私の大学のタイトルを入れればインターネットでヒットするようになっていますが、見ていただければ、今時間がないので余り細かいことは言えませんが、台湾便だけから見ても、北海道の国際交流にはちょっと問題がありそうだというところをどう考えていくか、その辺は、戦略投資をどうしていくかということですね。
意外と慰安旅行は多いですね。だから、慰安旅行の分を戦略的投資に少し回すとか、余計なことかもしれないですが、私の持論は団体旅行は余り意味がないと。やはり刺激が少ないですから、団体で慰安旅行をやるよりは、一人でフィンランドへ行ってきた方が刺激がいっぱいあります。その方がかけたお金に対する効果というのがあるように思います。
これは、私が好きな研究者でデンマークの女性の観光学者なのですが、ヒヤラーガーという方がおられて、なぜか日本の大学では紹介されているのを余り見たことがない。私が二、三年前に書いた本の中でもちょっと取り上げてみたのですが、もともとこの人が言っているのは、観光というのは、イノベーション能力があまりないということです。それよりは、周りの製造業とか、周りの技術開発のできるところの成果を取り入れていくべきだということなのです。
中小企業や、自分の家で家内工業的にやっている観光業に対して、イノベーションは不可能な話です。そういう点で、どういうふうに北海道の観光を良くしていけばいいのか、イノベーションしていけばいいのか、それとビジネスを繋げていければいいのか、という時には、全体を見られる力がなければいけないということで、他のビジネス部門とか公共部門の力もうまく研究して、それを観光業に取り込むことは重要な視点であると思います。
それで、4つくらいチャンネルを挙げていますが、一つは、広域システムで、簡単な例では、北海道のビジネスホテルも海外に行ってビジネスをしてはどうかと。そうすれば、英語を喋れないなんて言っていられませんよ、ということなので、従業員教育にもなるじゃないですかと。中で教育するより、実際にやったほうが早いと。その準備はあるのですが、例えばそういう広域システムを海外にまで広げる、人にやってもらうのではなくて、自分の会社がやるというようなことです。
それから、技術システムは、今言ったように外側のイノベーションの力を観光業のシステムに取り入れるということ。
3番目インフラシステムは、一般的に空港も含め公共とうまく連携するということです。
4番目は、制度システムということで、いろいろなことが考えられますが、制度を北海道から発信して変えていくというところがあってもいい、例えば、ビザの数次ビザを、北海道と沖縄は、どうして沖縄にあるのに北海道はないのとか、そういういろいろな制度を変えるということもあります。それから、先ほど交通のような問題が出ましたが、何で北海道特例の実験場のような交通システムが出来ないのか。群馬県とか埼玉県と北海道とは、交通システムが一緒なわけがないということです。なぜ北海道が特別であってだめなのか。そういった制度を変えることに手をつけようとしないところに、やはり弱さがあるということです。
基本的に、私は最大の資源は人間だと思っているので、人間がどれだけポテンシャルを発揮できるかというところに尽きると思っています。
それで、これは理論というほどの話ではなくて、どちらかというと脳科学なんかのことをもっと勉強しなければいけないのでしょうけれども、人間の脳はどうやったら刺激されるのかなということもちょっと考えてざっくり整理してみたのですが、北海道とか、北海道の市町村に対する愛着と誇りがまず基盤になければ無理だろうと。
その上で、じゃ、どうやって改良するか。この改良するというのは、簡単な整理をしてみたのですが、道内の中で高い刺激を取り合うということ、自分の力とか、共感者たちと一緒に切磋琢磨するというので刺激し合うのもいいですが、それだけではやはり足りない。何が足りないかというと、海外のそういった刺激を受けて、それをかけ合わせなければ高い刺激にはならないのではないかということなので、海外の刺激とは何なのだというと、海外での各種体験とか、行ってみて、帰ってきてみて、比較してみて、それでヒントを発掘、発見するということなので、この二つが、中と外とがかけ合わさって初めて先見性が高まるだろうし、目標も出てくるだろうし、それから、みんなでこれをやらないと自分の企業も北海道もまずいよねという話になる。そういうパワーが出るかというようなことをしていかないと、そういう人間の持っているポテンシャルをなかなか発揮できないということではないかと思っております。
最後になりますけれども、きょうの大使の話は、非常に私と近いことを感じたのですが、最初は、パッション(熱情)ということで、愛着、誇りというような熱意がなければいけないということですが、その次は反省、先ほど言いましたが、なぜこれまで失敗してきたのかというあたりも、ちょっと、もう一回考えようねということです。それと、その後は学びが来るのですね。学びというのは、アジアから学ぶのはいいことだと思います。私も中国の方へはかなり行っていますが、ただ、アジアで学ぶのとヨーロッパで学ぶのを、ヨーロッパの方の学びもやらなければいけないと思います。
何故アメリカでないのかというと、アメリカは大陸的な形で、日本の特に最後の方にもありますが、例えば北海道の中の地域や過疎の部分とか、僕は、アメリカにヒントはそれほどないかなと思っています。どちらかというと、より西洋の方にたくさんあるような気がして、そこのところを北海道の人はどれだけ吸収しているかということは、これからでいいのですが、北欧、もちろんフィンランド、それとその他北欧と西欧というところにヒントの発見できる可能性がかなりあるのではないかと思います。
これは、やはりインターネットでは無理だと思います。体験して実感してみて、それでヒントを得て、ちょっと自分の関係するところに使えないかということではないのかと思って、よくオリジナリティーということを求められますが、ヒントがないのにオリジナリティーが出せるのかということです。
やはり幾つかのヒントを多く入れなければ、自分のオリジナリティーでまとめられないのではないでしょうか。そういう点では、どんな機会でもいいから、とにかく行ってヒントを取ってくる。ヒントはただ黙っていてもないので発掘と言うのはそういう意味です。中に行って探してこいという話で、そこまでやって、そこから多様なシステム、制度、これは大分違いますよね。例えば、技術、エネルギー、環境管理、物流、金融、働き方、福祉、教育、過疎というふうにやって、たくさん書いてもしようがないのでこのくらいにしたのですが、私は、先ほど大使が言ったようにエネルギーが重要だと思っています。
ですから、エネルギーだとか、北海道はブラックアウトもありましたが、これから地元でやらなければいけない先見的な事業に対して、交通、物流、エネルギー、環境、環境はやはり北海道などが守らなければいけないものです。そういったもの、さらに先見的な部分として、福祉の分野とか教育の分野は、非常にフィンランドは優れていますし、西洋に学ぶところは多いだろうということです。
これを見ますと、そういう点では、北海道内のあらゆる人達がヒントを探しに行けるのではないか、観光の人だけで行く必要はないということで、自分の立場から考えて、北欧、西欧に学ぶのに、自分が今ヒントをつかみ、何をしに行くのかを考えて行くとしたら、私は、北欧、西欧は宝の山ではないかなと。宝の山は行かなければ見つかりません。
昔、中国内蒙古のところに行って、中国一貧しい町ですと言われて、本当かなと思っていたら、その後、十数年したら、中国一豊かになりました。何でと聞いたら、地下にエネルギー(レアメタル)が眠っていました。莫大な資金があって、1人当たりの所得が上海と同じレベルになっています。成金になり失敗した人もいるのですが、地下に眠っていればわからないわけです。探しに行かなければわからない。
だから、宝というのは、落ちているのではなくて、やはり自分である程度の先行投資をして見つけに行って見つかるから宝になるので、行かないで、誰かに宝はどこに落ちているのですかと聞いて見つかるというのは、それはないと思っていたので、最終的な話になりますが、道民の主体性向上、こういう固い言葉は使いたくなかったのですが、とにかく自分で何かやるということです。それが、北海道社会が変わることになるのではないかということなので、これを一歩一歩やっていくことが、もしこれを5年10年やっていったら北海道は変わるのではないかと、自分も含めてですが、そんな期待を持って、今回フィンエアーの直通便に期待しているので、私も毎年大体一、二回はスイスなどは行っているのですが、今度はヘルシンキ便を使って行こうと思っております。
時間が限られておりますので、私の話は以上でございます。
ありがとうございました。
木本晃氏(北海道21世紀総合研究所特任審議役)
こんにちは。木本です。
僕は、観光の面から、今回のフィンエアーの就航をお祝いしたいと思いますが、これから人口が減っていくということで、それを観光でどうにか元気にできないかということを考えている者です。
基本的に、僕の思いは北海道をマイノリティー、フレンドリーな地域にしたい、要するに弱者の方々が安心して来られる北海道にしたいと思っていて、それはフィンランドから大いに学ばせていただきたいということであります。
それから、次のチャンスは何かというと、2021年に北海道が誘致しようとしている「アドベンチャー・トラベル・ワールド・サミット」、これは特に欧州の方々が大変先行的にやっていらっしゃる、これもまたフィンランドの皆さん、また今回フィンエアーの直行便ができたということで、このザ・アドベンチャー・トラベル・ワールド・サミットを実現に繋げていきたいなということであります。
それから、今、伊藤先生も含めて、多くの方が仰っておりましたが、基本的に、最後の目標は人口減少の中で元気にするということですから、観光の場というよりも、ビジネスの場としてどうやって価値を上げていくかということに目標があって、その面でも、今回のフィンエアーの直行便というのは大いにプラスの要因というふうに思っています。
この地図は、新千歳空港が羽田よりもフィンランドに650キロ近いですよという、地球を上から見た絵ですが、この近さは、要するに欧州から来たときに新千歳空港が日本へのアジアの玄関口になるということです。このアジアへの玄関口を利用するためには、作戦としては、欧州の方々がアジアに来るときに、北海道を一回経由しながら行っていただきたい。北海道と台湾は4時間、それから台湾とシンガポールは4時間で、フィンランドから北海道は8時間、9時間で来られて、シンガポールですね。それからまた帰っていくわけですが、僕らがヨーロッパに行ったときには、多分、パリに行ったら、その後ミラノにも行きたいとかギリシャに行きたいと思うように、初めてヨーロッパから日本に来るときには、一般的には、東京に行って、その後、台湾に行ってとか、シンガポールですけれども、ここ北海道の人間が行動して、そういうアジアの人たちと旅行商品をつくって、それを欧米に売りに行くということですね。欧米に是非とも北海道にも寄ってくださいということです。
余り時間がないのですが、本当は、ここでお伝えしたかったこと、大体、多くの方は知っていると思いますが、仁川とかチャンギの空港では、トランジットの間に無料でマチの中をツアーさせています。北海道もある意味で言うと、今、朝便が飛んでいますので、夜に来て夜の間に北海道をちょっと楽しんでいただいて、あとは朝便で飛ぶ。または、朝着いて、北海道で10時間位ですね。千歳に着いたらキリンビールとかサッポロビールとか石屋製菓とか、そういった団体、230人くらいですからバス4台くらいでぐるっと無料のツアーをしながら、何だかただで北海道へ1泊できるかなというものを作ったらいいと思います。
これが最後のペーパーになりますが、僕らがやらなければいけない戦略、これも多くの先生方がおっしゃっていましたが、ビジネス客をどうやって北海道に持ってくるかということであり、ワーケーションとか、ブレジャーという言葉が最近いろいろなところで出てきていますが、ビジネスで来られた方がビジネスの後に何泊か旅行するということで、左側に幾つか書いていますけれども、例えば、2025年の大阪万博は日本の最高のIT技術等を見せる場ですから、世界中からビジネスマンが万博を見に来たときに、その後、北海道に寄っていただいて、北海道からフィンエアーでヨーロッパに帰るという、こういったことをやっていくのが必要かなと思っております。
本当に時間がない中で、喋りたいことの少しでしたけれども、観光のためにも、フィンエアー直行便が本当に本当に嬉しいことですので、心からお祝いしたいと思います。
どうもありがとうございました。
質疑応答―進行役:高田喜博氏(ハイエック客員研究員)
パネルディスカッションを早速始めたいと思います。
時間がない中、ご報告をありがとうございました。
大使のお話、それから報告の中で、今日は欲張った内容になっているにも関わらず、ちょっと時間がない、それで中身がちょっと混乱していると思うのですが、まず、一つのテーマは、せっかくフィンエアーが来ました。KLMのように撤退とかにならないように、どうやってきっちりとお客さんに乗ってもらって、せっかく通年になったので、これを少しでも多くの便に拡大していきたいというテーマが一つあります。
もう一つのテーマは、大使のお話にもありましたけれども、人の移動、人の交流、これを物、つまり貿易ですね。お金の移動、これは投資ですね。あとは情報とか技術は、ヨーロッパとアジアの、フィンランドと北海道のかけ橋になるような、そのような発展経済を考えなければならない。
その二つのテーマについてお話しいただきました。特に、そういう流れをつくるためには、そういうビジネスなどが発展をするためには、どうしても交流のベースがなければならないですね。そういう意味では、一番最初に井口さんにご説明頂いた、長い間、草の根レベルで北海道とフィンランドの交流の歴史があった。これが非常に重要で、そのベースがあるからこそ、そういう経済交流に発展することができるのだというふうに思います。
まず、井口さんに質問をしたいのですが、先ほどフィンランド語のお話がありました。
ただ、我々は初めてフィンエアーに乗ってフィンランドに行くときに、フィンランド語ができないと心配な面があるのですが、実際、フィンランドで英語はどれぐらい通じるのでしょうか。
○井口 今、フィンランドへ行く人は、普通でしたら100%英語で問題はありません。もちろん幼稚園の子どもをつかまえて英語でしゃべっても通じないケースもありますし、私は、今85歳ですが、大体80歳過ぎの年寄りをつかまえると、やはり英語が通じないケースはあります。
昔の人は、戦時中ドイツ語を習った人が多いのですが、今日の中心も大体30代、40代、ビジネスマンの成熟期の60代で、皆さんもう英語の世代ですし、フィンランドはもっともっと英語社会ですから問題ありません。
でも、うちの協会がフィンランド語を大事にしているのは、やはり、その国の言葉は大事なことです。私は日本語は本当に得意ですけれども、私のとても親しい友人も日本語は得意です。でも、彼も私も英語はいいかげんでございまして、よくこれで会長をやったり、50年もフィンランドとつき合っているなと。老体がみんなとつき合っていますけれども、私はビジネスマンではないですから、皆さん方とはちょっと違って、我慢してもらっているのですが、言葉はやはり大事ですから、時間がありましたら、英語の傍らで結構ですから、本当に入門くらいのフィンランド語は勉強してください。
○高田 そうですね。いきなり行って、英語しかしゃべれないから、英語というわけにはいかない。やはり挨拶とか、お礼の言葉は必ず必要ですよね。
○井口 うまい具合に誘導しますが、名誉領事の横山さんがつくった有名な言葉がございます。日本語で乾杯、フィンランド語でキッピス、二つ合わせてキッパイ、これはおとといの夜、大使と横山さんと飯を食いながら、一生懸命横山さんが教えていました。大使はすごく感動しまして、今度は大使館で使うのではないかなと思います。キッパイ。
私もフィンランド語は入門だけは3年ぐらいやりました。うちのフィンランド協会のたった一つしかない入門クラスです。それも、大体2カ月ぐらいでもう脱落しました。3年間入門編、それも3カ月ぐらいやって、入門編の権威になりました。ですから、向こうに行くと、本当にベーシックな幼稚園レベルの私のフィンランド語は、フィンランドに行くとすごく友達をつくる、じいちゃんにしろ、子どもにしろ、大事ですから、それは皆さんもしっかり覚えてください。
○高田 ありがとうございました。
次に、白石さんに質問をしたいのですが、フィンエアーの就航率を上げるという人の移動について、先ほど、北海道とフィンランドだけでは足りない、やはり、お互いにアジアとヨーロッパのハブとして、新千歳に、日本中から、またはアジアから人を集めて送り込む、また反対に、向こうでもヘルシンキがハブとなって、ヨーロッパから、また北欧から人を集めて送り込むのが大切だという話があったのですが、これはさっき白石さんが言っていたモノも同じですよね。例えば、飛行機で運ぶという場合は、少ないもの、軽いもの、高いものなのですが、先ほど大使のお話の中に北極海航路の話が出てきました。この北極海航路の活用というと、これは、ある程度、モノを集めなければならないのですが、北海道で、北極海航路で物を運ぶということはちょっと難しいのではないかと思うのですが、そういうお話はどうでしょうか。
○白石 可能性はあることだと思いますし、今、実際に試験的に航行が始まっているという点では、非常に前向きに取り組むべきだとは思っております。
今ご指摘いただいたとおり、フィンランドと北海道とを見るのではなくて、ヨーロッパと日本、あるいは、ヨーロッパと日本、アジアという視点から見たときに、北極海航路あるいは新千歳からヨーロッパの転換地であるヘルシンキに飛べるというのは、非常に大きなツールというか、武器になると思います。
○高田 白石さんは北海道出身ですか。
○白石 いえ、私は新潟県なのですけれども。
○高田 さっき伊藤先生のお話の中に、北海道は自主性がないのではないだろうかとか、そういうお話があったのですけれども、外から白石さんが北海道に来て、北海道のビジネスの面で、北海道人の自主性とか積極性についてどういうふうに感じられますか。
○白石 私は、ここは屯田兵の時代からフロンティアだと思っていたので、開拓精神があると思っているのです。
逆に、北海道で成功した人は、某家具メーカーもそうですが、出てしまうのではないかと思います。ぜひ残っていただきたいですね。札幌を見ると、こちらに縁のある企業さんは、こちらで成功すると東京の方に行ってしまいます。ここで頑張っていただいて、GAFAではないですけれども、シアトルで頑張っていただいてとか、そういう感じでやっていただければ、なおありがたいかな、そういうふうに食品メーカーさんなどは非常に頑張っていただいてよろしいのではないかなと、私は応援したいと思います。
○高田 あとは、ビジネスの環境を白石さんがつくっていくとして、分野なのですけれども、観光と、さっき伊藤先生の話でも、観光だけではだめで、いろいろな分野と関連をつけていかなければいけないということで、そういう産業の連関をつくっていくことが大変だとは思うのですけれども、北海道から出せるもの、また、北海道の冬を見たときに、観光と結びつけてというか、ヘルシンキ、フィンランドに、またそれを通じてヨーロッパに出していけるものとか、何かアイデアはあるのでしょうか。
○白石 これというのはなかなか難しいのですけれども、一つとしては、掛け算をすること、先ほど大使もおっしゃっていましたね。何かITと例えばお金、フィンテックとか、車とITで無人走行とかというような形で掛け算をすること、あるいは、もう全く新しいものをつくり出すイノベーション、我々もまだ知らないものを生み出すというようなものが、例えば、北海道では、今、大学もありますし、ビジネスもありますし、可能性というのは幾らでもあるのではないかなと思います。
○高田 ありがとうございました。
伊藤先生からは、いろいろな問題、課題が出たのですが、また、その解決策も出て、総合的な戦略的なお話だったので、伊藤先生には最後にまとめてお聞きすることにして、木本さんにお聞きしたいのですが、先ほどの伊藤先生の報告の中で、北海道が、今まである意味では観光では今盛り上がっているものの、確かにKLMの撤退とかいろいろなもので苦戦している面もあるわけですよね。
その観光の現場にいて、北海道は何が足りなかったのか、そういう失敗の原因は何だったのか、木本さんはどういうふうにお考えになりますか。
○木本 当時と今も変わっていないと思いますけれども、北海道民に足りないのは当事者意識ですね。ですから、農業は大変儲かっています。漁業も建設業も実は儲かっています。
新幹線が来ても、北海道は広いので、これはうちの町は関係ない。空港を民営化してもうちの町は関係ない。フィンエアーが来てもうちの町は関係ない。要するに、当事者意識が低いので、責任もないし、それをチャンスにしようという気持ちがないのが大きいかなと思います。
以前から見て少し変わったのは、多くの人が北海道に来てビジネスを起こしているということです。要するに、白石さんに質問があったように、北海道はフロンティアスピリットを持った人が来るところなのですね。フロンティアスピリットを持った人が北海道に来ると、僕は道民ですけれども、道民は邪魔をしない。だから、こういうよその人が北海道の大地でいろいろなことをやることを僕らは温かくといったらおかしいけれども、多分、他の県のように足を引っ張ったり、意地悪をしないので、それで成功していただいたときに、周りの人たちが、今これだけ外国人が増えているので、これはビジネスチャンスだとやっと思うようになってきたのが、前回とは違うと思っています。
○高田 後は、先程アドベンチャーツーリズムのワールド・サミット誘致とか、北海道というのは、そういう体験型観光の宝庫であるとは思うのですが、ただ、もう一つ、現状ではまだ足りないところもいっぱいあると思うのですが、北欧、世界のアドベンチャーツーリズムに比べ、北海道のアドベンチャーツーリズムの問題点などをお話しいただけますか。
○木本 北海道のアドベンチャーツーリズムに関する問題点は、ガイドが足りないことで、ガイドが足りないことは、数ではなく来た人をしっかりと喜ばせることのできるガイドさんが不足している、それは、子供であれば子供に伝えること、それから、何度も川下りをしたことがある人や、世界中で野鳥を見たことがある人に伝えるべき言葉、それから、もしかしたら仲間と一緒に誘われてきて、本当はこういうことは余り得意ではないという人たちにその面白さを教える、要するに相手を見ながらガイドをすることが一部では始まっていますので、できないことではない。一部で始まっているこのガイドのメンタリティーみたいなものが、なかなか、北海道にはサービス精神がちょっと足りていない部分があるので、これはこれからアドベンチャーツーリズムという少し目線の高いお客さんが来たときに、ガイドのほうも成長していくし、その必要がある、また、行政が支援していく必要があると思います。
○高田 いきなり成熟したツーリズムが成り立つわけがないので、さらにチャレンジしながら、北海道も成長していかなければならない、そういうことでよろしいでしょうか。
○木本 どこにも見本がないわけではなくて、ガイドさんの中には、上手な人がいて、これからの人がいて、それで多分いいのだと思います。
それは、知床のガイドさんもいて、旭山、それから根室のガイドさんがいて、今、いろいろなガイドさんの横のつながりが出来つつあるところですから、これは期待できる。
そのときに、インパクトのあるイベントがあると、一気に伸びますのでそれはオリンピックであったり、このアドベンチャーツーリズム、アドベンチャートラベルのワールド・サミットみたいなものがあると、多分一気に花開くのではないか、また、そういうふうな機運を活用しなければいけないなというふうに思っています。
○高田 ありがとうございました。
まだ途中ですが、時間が大分押してきましたので、伊藤先生のところにマイクを送りたいと思うのですが、ほかの方々のお話も聞いて、先生の話で私が一番興味を持ったのは、北海道は東京よりも北欧に学ぶべきではないか、ヨーロッパに学ぶべきではないか、そういうことが重要だと私も思いました。
そこをもうちょっと具体的にお聞きしたいのです。フィンランドまたは北欧から、我々はもうちょっと具体的に何を学ぶべきかというお話をお聞きしたいのと、先ほど、先生は時間がないので端折ったと思うのですが、さっき言い残したことも含めてお話しいただければと思います。
○伊藤 ありがとうございます。
ちょっと総括的な話になるかと思うのですが、今もあったように、北海道の人が成功したら東京に行くというのは、確かにあると思います。
それで、どうしてかと考えるのですが、経済環境が東京のほうが圧倒的に有利だというのは当たり前ですが、ひょっとすると、文化とか制度に問題があるのではないかということかもしれない。北海道に誇るべき文化とか、北海道の特性に合わせたような制度が用意されているか、そういうのがないから東京に行ってしまう、本当は北海道に残りたいのかもしれないということです。
何を言いたいかというと、それで東京に行きますよね。でも、歴史というのは、ダイナミズムというか、変化していきますから、さっき時間がなくて実は言わなかったのは、東京に学ぶことは何かあるのかということです。今どき、これだけ情報網が発達して、大体、東京でやることはほとんどそのミニ版を札幌でやっているし、何かすばらしいインプレッションが東京に、技術とかは抜きでありますか。制度は北海道の人も知っていますよね。日本の制度ですからね。
だから、極端な刺激的に言うと、東京に学ぶものはもはや余りないということ、だとしたら、どこに学ぶヒントが残っているかといったら、それは一番先進的なのは北欧と西欧しかないです。多分、アメリカでもないと思います。
これは私の個人的な見解ですから、そういう意味で、先ほど、過疎を含めていろいろなエネルギー、環境、まして北海道の特性の自然環境を守るような、そことリンクするような技術などでいう経済でなければ、ある意味がないです。北海道に合わない技術を入れたり、北海道に合わないシステムを入れて、交通システムにしても、先進的だから、いいですから、取り入れたといっても、北海道に合わなければ、心臓移植とか肝臓移植と一緒の自分と身内に関係ない人のものを移植したということになりますね。
だから、ヒントを持って自分のところに応用を図るのであれば、自分の体質に合った移植をしなければ、幾らヒントをとっても合わないということになるとしたら、もはや東京に学ぶことは余りないのではと思います。むしろ、先行投資をしてジェトロ、ヘルシンキに、皆さん年に1回は企業の方が行くとか、そんなところをやりながらヒントを見つける先行投資ぐらいはつくらなければ、次の展開はないのではないかということで、札幌も実は情報系とかはすごく強くてかなりのところまで行っている。でも、もう一歩が足りない。
先ほど、大使がスライドでオウル・ユニバーシティーのものを出しました。オウル・ユニバーシティーは、あの近くに昔ノキアがあって、ノキアは木材の会社だった。木材の会社が、いろいろ合併しながら世界で一番最初に携帯電話をつくった、そのイノベーションがフィンランドで起きているわけですよね。
どうして同じ550万人の似たような、先ほど類似性という言葉がありましたが、どうして北海道から生まれないのだということは、やはり東京の呪縛に縛られていると、東京の制度の中に組み込まれていると、北海道は、スコットランドのようにEUに加盟しようという独立機運くらいの気概があったっていいのではないかと言ったら極端になってしまいますが、ただ、そういう意識がなかなか出てこないところが、やはり突破口、ブレイクスルーが起きない大きな原因になっているのかなと思うのです。
そういう大きなことは一朝一夕にはできませんから、まずは飛行機に乗ってヘルシンキで観光して、私もヘルシンキの駅に行って初めて見たときにびっくりしました。
駅の建物が素晴らしいのです。しかし、入ったら何もないのです。ただ線路があって、プラットホームはあるのですが、ほとんどないですよね。自然と一体になっている駅で、北海道人が見たら、張りぼてだということになると思いますが、あれを25年前に見たときは、ちょっと衝撃でした。
そういう意味では、直接行って現地の人と食事をして、それでパートナーになって、じゃ、一緒に仕事をしませんかという関係は、ヨーロッパであろうが、中国であろうが、同じです。私も中国は相当、研究も含めて多くの友人と交流をずっとやっていますけれども、やはり食べることから始めていますね。
ですから、自分たちの観光だけやって帰るというよりは、次のワンステップ、ワンステップとやって、それを仕事につなげる、この数回の努力をして、じゃ、北海道とフィンランドは、ここが同じだから一緒にやれるよねとか、でも、フィンランドだけではなくて、そこから西洋の方に、いろいろと興味のある国に行っていただいて、仕事を広げる。
そういう積み重ねは早く始めないと、なかなか北海道の状況を見ると、手遅れな状態にならないかなと懸念していて、今日私の知合いの歌志内の方も来られていますが、人口3,000人で、10年たったら2,000人を切るかもしれない、日本一小さな市です。
どうするのですかという話ですよね。
今取り組まなければ、そういうキャッチコピーもありますが、間に合わないのではないかということがあって、そのときに東京を真似ると失敗するのではないか、西欧、北欧を真似た方が成功に近づくのではないか、そういうことを私は言いたいということです。
○高田 実は、欲張った企画を立ててしまいました。時間がないにもかかわらず、ちょっと欲張った企画で、今日は、せっかくいいお話をいただきながら、ちょっと中途半端に終わらなければならないことをお詫びします。
ただ、北欧に学ぶことがたくさんあって、先ほど、大使のお話の中に、北海道と同じぐらいのスケールの国だと言っていながら、1人当たりのGDPは世界第15位ですね。
北欧は全てその10位前後に入っています。それに比べて、今、日本の1人当たりGDPは世界で26位にまで落ちました。
北海道だけでも北欧に学んで北欧のように豊かな地域をつくりたい、これからは、こういうセミナーの機会をこれからも何度も持って、北欧に学びながら、そういう北海道をつくっていく、そういうセミナーを続けたいと思っています。
それでは、ここでフロアを開いて、ちょっと時間がないのですけれども、フロアからの質問をとりたいと思います。
質問のある方は手を挙げてください。もしできましたら、出身、所属とお名前をお願いいたします。
では、4人ということで、質問を受けて、時間のある範囲でお答えしたいと思います。
○フロア 石狩から来ました「いしかり古民家活用地域活性化協議会」の板垣と申します。よろしくお願いします。
石狩の八幡町の高岡というところで、農家住宅の明治43年に建った古民家を宿泊施設に改修しました。そこにインバウンドを連れてきて、石狩の体験型観光を進めていくというところなのですが、その中で目標として、やはりヨーロッパの方々に来ていただいて、そこでロングステイをしていただき石狩を楽しんでいただきたいと思っています。
このヘルシンキの直行便ができたので、非常に心強いのですけれども、今聞きたかったのは、札幌には来るかもしれない、石狩にどうやって連れて来ようかということです。
その辺をちょっと教えていただければと思います。
○高田 はい。先に質問を受けて、大使が出かける時間もあって、最後の時間が30分に決まっているので、次の方、質問を手短にお願いします。
○フロア 私、フィンランド大使館商務部の沼田と申します。
私自身、北海道の函館出身なのですが、18歳から海外に出ているということもあって、よく外から北海道を見ている観点で、ちょっとパスポートの取得率が低いということを含めて、北海道の方が旅行しないというところ、ご見聞を広めるということだと思うのですが、道庁さんもいろいろ施策等をやっていると思いますが、北海道の方が旅をするような効果的な動機づけというのは、税金が使われていると思うのです。私も同じく税金を使う仕事をしているのですが、僕がやる場合は、結果を非常によく考えてやっています。フィンランドという国ですが、税金対策を含めどういう対応が可能かというところを伺います。
○高田 全国平均が、パスポート取得率は24%ぐらいなのですけれども、たしか北海道は……
○木本 17.5%ですね。今37位ぐらいです。
○高田 非常に低いというお話です。
次の方、質問だけ手短にお願いします。
○フロア 北海道大学のタザワです。
白石さんへの質問になるかと思います。
先ほどのサウス・バイ・サウスウエストにモチーフを得た「No Maps」の話とか、フィンランドのITの祭典のスラッシュの話に言及されたと思うのですが、そういうフィンランドのITのスタートアップと札幌のITのスタートアップは、あっちに行く、こっちに来るみたいな話がありましたが、直行便があるだけではそこの交流は深まらないのかなと思うのです。ITのスタートアップレベルでそこがもっと促進していくには、実際にどういう取り組みが必要なのかというところをお聞きしたいです。
○高田 ありがとうございます。白石さんに質問ですね。
先ほどのパスポートの話は、木本さんでいいですね。
どうぞ、最後の質問です。
○フロア 函館のレストラン五島軒から参りましたワカヤマと申します。
先ほど、伊藤先生のお話を聞いていまして、私の知り合いが不動産投資の会社をやっていまして、福岡と札幌で東京の人向けのマンションを売り出して、年商何百億円ということで、北海道の人はそういうことに気づかない、東京の人にむしろ札幌に、北海道にそういう魅力があるということが示されているので、やはり北海道の人たちは自分たちの魅力をよくわかっていないのだろうなという感想を持ちました。
今回、ヘルシンキに直行便ができて、私たちもヘルシンキに行って、いろいろ勉強しようというのは、きょうすごく気概が上がったのですけれども、向こうの人は何を望んで北海道に来るのかというのは、旅行するだけではわからないので、そういうポイントをどういうふうに見つけていったらいいのかという質問をさせていただきます。
○高田 多分、井口さんですね。
石狩にお客さんを呼ぶということについて、木本さん、お願いします。
○木本 石狩の古民家にお客さんを呼ぶのは、ピンポイントでの情報発信しかないと思います。
実際、民泊なり、ゲストハウスにすると、来る人間は交通が多少不便でもそこに行きたいと思います。また、そこに行くのは、古民家の魅力だけではなくて、その古民家で、どんなイベントや、地域の人との交流があるかということを伝えることだと思います。
多くの失敗事例の一つは、食べ物と景色だけをアピールしますが、食べ物と景色はあって当たり前で、どういう人たちが、どういう交流が、今までもあったし、これからもあるということを、もちろん情報ツールはありますので伝えることでできると思います。
札幌に来ている人は、札幌に泊まりたいわけではないですから、札幌の近くに泊まって遊びたいので、十分可能性はあると思います。
また、個人的に来ていただければ、ゆっくりお話を。
○高田 パスポートのお話をお願いします。
○木本 パスポートの北海道取得率は、大変低くて、都道府県47のうち36、7位だと思いますけれども、取得数はかなり高いです。全国で2位くらいです。
取得数は高いのだけれども、持っている人の率が低いのですけれども、なぜ毎年毎年取得しないかというと、二つ理由があって、初めて取得する大学生が全部東京にいるので、初めて取得するときが東京で取得しているのではないかということが一つです。
それから、海外に出張する企業がちょっと少ないのかなということで、要するに、よく言われている北海道のマインドが海外に行きたがっていないのだとかということではなくて、北海道民でも、東京に住んでいて海外に行っていますので、そうではないと思います。
ということは、子どもの頃に飛べるようにするか、または、企業に入ったら、例えば道経連に入っているような企業は、年に1回ぐらい出張させてやってくださいということで、そうすると、取ったパスポートがあるから、せっかくだから家族でどこかへ行こうかというふうにモチベーションが上がります、そういう意味で大手の企業さん方に、今回のヘルシンキ、フィンエアーもそうですけれども、大いに活用してもらうことで、全体的に上がるのかなと思っています。
○高田 それでは、白石さん、お願いします。
○白石 スラッシュ、イノベーションというか、スタートアップ企業の支援ですね。
ご指摘のとおり、飛行機があるから促進されるわけではないと思います。でも、大変ありがたい質問をいただいて、今、ジェトロではスタートアップ支援というのを始めて、現地に行くためのこの見本市に参加しましょうというようなプロモーションをやっています。
ただ行きましょうだけではなくて、その前に、アクセルレーターという指導役の人にお会いして、どういうふうなプレゼンをすれば彼らに刺さるのか、どういうふうにすればいいかというのを事前にテレビ電話などを使って練習して現地に行くというような取り組みで、なおかつ、1人で行くとちょっと心細いというのであれば、みんなで行きましょうと。
さっき、先生はかなり厳しいことを、1人でも行かなければだめだと言われていたのですが、それは厳しいのではないかと思うので、みんなで行きましょうという形で、ミッションというふうに、3人、5人のミッションで、入念な準備をして現地に行く、そういうような取り組みを今進めておりますので、ぜひジェトロを使っていただければと思います。
○高田 フィンランドにとっての北海道の魅力ですね。
○井口 私の知る限り、フィンランド人が北海道に一番来る季節は、一つは2月です。なぜかというと、札幌国際スキーマラソンです。これは、札幌国際スキーマラソンとラハティのスキーマラソンですね。これは世界のロペット(クロスカントリースキーの組織)の一つのグループです。これを走ると、世界はもちろん、フィンランドでは本当に尊敬されるのです。尊敬される人になりたい、これはもう誰も、日本人もそうでしょうけれども、本当にフィンランドの父さん、母さんも含めて、もうかなりのばあちゃん、じいちゃんまで含めて札幌に来ます。
残念ながら、2月は雪まつりでホテルは満杯で高い。すると、どういうことになるかというと、我がフィンランド協会で、一生懸命、家に泊めたり、安いところを探したり、これは、今後ももっともっと広がると思いますね。
私自身では、15年前、私が70歳のとき、記念にフィンランドエアースキーマラソンに参加しました。さすがに60キロは走れなかったので、ハーフの30キロを走りましたけれども、本当に感動しました。お互いに。これが一つ。
ですから、北国だから南のほうが好きだとか、そういう発想はないと思います。北国同士のつき合いはしっかりできると思います。
それから、オーロラに対する関心。このオーロラの魅力を見つけたのも日本人です。
それまで、オーロラというのは、全然、フィンランドの人にとっては関心外、秋田のなまはげみたいなもので、おっかないものだった。ですけれども、それを観光として見つけたのが、東京の小さな旅行会社で今は大変です。
○高田 ちょうど大使の出なければならない時間が来てしまったので、最後、本当に唐突ではありますが、きょうの基調講演とパネルディスカッションをここで締めたいと思います。お願いします。
○司会 ありがとうございます。
速足でお話をいただきまして、まことにありがとうございます。
それでは、本日、基調講演をいただきました駐日フィンランド大使、ペッカ・オルパナ大使、本日はまことにありがとうございました。
○オルパナ大使 一言お話ししたいと思います。
たくさん答えたいことはあるのですが、さっきお話にありました北海道のホタテをぜひフィンランドでも食べてみたいです。それから、北海道の製品をたくさんフィンエアーで、カーゴで運んでほしいと思います。
また、ここでは、伝統的なものを大切にして、例えば温泉、それからサウナ、それからクロスカントリーもあると聞いています。私自身がクロスカントリーをするので、妻は普通のスキーをやりますが、クロスカントリーのコースを整備していただいて、山の中の美しい景色を見ながら滑るコースをパッケージツアーにぜひ考えて頂きたいと思います。
それから、一つ気づいたのは、日本のハンディキャップが一つあります。それは、世界の言葉である英語を話さないということで、一番のハンディキャップです、世界の市場の中で競争力を持つには、英語が非常に不可欠であるということ、フィンランド語を学ぶのもいいのですが英語は非常に大事です。
それから、私は北海道について知らないことも多いのですが、先ほどノキアの話がありましたが、ノキアは、広角的ににたくさんの投資をしたということがありまして、それが成功の秘訣でした。
また、フィンランドでは、大学のシステムも非常によくて、若者の起業家を育成するためにサポートもしています。私の息子も300万円ぐらいの資金を得たりしています。
それから、文化を維持して、そしてビジネスの基礎としてください。今年は、300ぐらいの文化行事がありましたが、人と人との関係づくりというのは非常に重要です。
そして、北極海の航路についての話もありましたが、どこがハブになるかわからないですが、地の利という面では、もしかしたら北海道がハブになり得る可能性もありますし、そうすると、北海道の生産業もどんどん伸びるのではないかと思います。
ありがとうございました。
◆【1】北方圏交流新時代―新千歳‐ヘルシンキ線就航に向けて
調査研究部 森内 壮夫
今年12月からフィンエアーがフィンランド・ヴァンター空港と北海道・新千歳空港を結ぶ冬期間限定の定期便を就航させることになった。北海道とヨーロッパを繋ぐ空路が17年ぶりに復活することになる。
冬期間にパウダースノーを目指してやってくる欧州のスキーヤーの来道にフィンエアーが商機を見込んでの就航とのことだが、同時に北海道民にとっても、久々にヨーロッパへのアクセスが格段に向上することになる。インバウンド-アウトバウンドの交流人口の増加のみならず、日EU経済連携協定(EPA)が発効され、物流やビジネスの利用に対しても期待がかかる。利用客が安定的に見込める場合、通年就航の可能性もあると噂されている。逆にバランスシートのマイナスが続けば早期撤退もあり得るであろう。
筆者が所属する公益社団法人 北海道国際交流・協力総合センター(HIECC)にとってもこの定期便が就航することの意味は大きい。HIECCの前身である北方圏センターの設立理念である「北方圏構想」の交流の主要な相手が北欧だったからだ。北欧への直行便開通は、すでに成熟期に突入している北方圏構想を再び推進させる契機となる可能性を意味している。
「北海道は地理的にも北方圏の要衝にあり、北方圏諸国との交流拠点として、重要な役割を担うことが期待される」と謳う北方圏構想であるが、これまで人的・地域同士・民間の相互的な友好交流は大きな実績を上げてきているところ、直行便の就航は経済交流を広げる可能性を秘めている。そういう意味からも、この就航は北方圏構想を再訪し、振り返り、ヒントを探り、今後の北海道が地域として活性化されてゆくためのビジョンを改めて考えてみる、絶好のチャンスといえるであろう。
就航に先立ち、フィンランドへ調査に行く機会に恵まれた。滞在中、調査取材の一部をハイエックのホームページで紹介したい。
◆【2】北方圏交流新時代―新千歳‐ヘルシンキ線就航に向けて
調査研究部 森内 壮夫
【北方圏構想とは】
フィンランドの調査取材に入る前に、北方圏構想を改めて振り返ってみることとしたい。
「われわれは今まで狭い地域のなかで物事考えすぎてはいなかっただろうか。――――こんにち国際化時代といわれながらも、国々はそれぞれの国境や政治体制や社会構造の違いと壁を持っている。それはインターナショナルに考えているからであり、さらに次元を高めてグローバルに眺めれば、そこには国境も政治社会体制の相違もなく、ただの太陽系の惑星とのみ存在するのである。そうした発想の転換こそが私の主唱してきた『北方圏構想』であり、『北方圏へのグローバリゼーション』である。――――そこから隣人愛がはぐくまれ、学術や文化、スポーツの交流が生まれ、やがては産業、経済の交流の道が開け、相互繁栄へとつながることであろう」
1972年11月季刊北方圏(当時はHOPPOKENではなく「北方圏」と漢字だった)巻頭言からの引用だ。「北方圏へのグローバリゼーション」と題された巻頭言の作者は北方圏調査会長の堂垣内尚弘・北海道知事(当時)である。
北海道総合政策部は「北海道国際化の意義」の中で開拓時代以降の北海道の国際化を振り返り、北方圏構想の意義・評価について以下の通り総括している。「北方圏構想の成果は道民の暮らしの中にさまざまな形で反映されている。例えば、歩くスキーやカーリングなどの冬季スポーツ、全道で開催される冬のイベント、寒冷地用の高気密住宅の発達、地下街の形成など地域づくり、街づくりにも影響を与えている。北方圏構想は、北海道として初めての国際戦略として評価される。すなわち、本道が抱える様々な課題を気候風土など類似した条件にある海外にその解決方法を求め、その交流成果を具体的に地域づくりに反映していった。現在、道が検討を進めている自主・自立化推進プランとも符合する『北海道自立運動』であったと言える」
「北方圏構想」というワードは堂垣内尚弘道政時代の1971年度にスタートした道の第3期総合開発計画に初めて盛り込まれた。その考えは「積雪寒冷など北海道と気候や風土の類似している北方圏の諸地域に住む人々が、国境や言語の壁を越えて、生活や文化、学術、 スポーツ、産業経済など各般の交流を通じて、生活の知恵や技術を交換し、相互の地域の発展を図ろうとするものである」と定めている。この構想を読み解くカギは「交流」である。北方圏地域はアラスカを含むアメリカ北部、カナダ、北欧諸国、ロシア極東・シベリア地域、中国東北部などが含まれる。
北方圏構想が出現した時代背景として、中央との従属性の強い経済構造からの脱却をめざし、新たな発展の方向性を見出すため行財政面における自立を達成する機運が高まっていたことが挙げられる。堂垣内知事は弊誌の23号(1978年)のインタビューで「開拓以来の中央から持ち込まれた南方志向の発想を、北海道の風土に立脚した北方志向の発想へと道民意識の転換を求め、北国である北海道の特性を生かした地域づくりを目指していこうとする。それが『北方圏構想』」と語っている。この時期の稲作の冷害、北洋漁業の不振、炭鉱の閉山などによる経済の低迷も、パラダイムシフト=価値観の転換を促す作用に拍車をかけたと見ることもできるだろう。グローバルな視点でも東西の壁が立ちはだかり冷戦の緊張が依然と続く最中、オイルショック前夜、日中国交正常化直後という激動の時代と重なる。『北方圏構想』という旗印を掲げ、北方圏諸国との交流を通し、国からの財政資金への依存体質を改め、自立的な北海道を築こうという、スケールの大きな気概だったのだ。
北方圏構想の推進母体としては1971年に発足した北方圏調査会(毎日新聞社が大きくかかわった)から始まり、72年には北海道開発調査部のなかに北方圏調査室が設置され、76年に北方圏情報センターを併設。78年に北方圏調査会は(社)北方圏センターとして発展的に改組し、2011年に(公社)北海道国際交流・協力総合センター(HIECC)に名称を変更し、現在に至っている。名称変更を経て、北方圏センターは調査研究部内に内部機関としておかれている。
◆【3】北方圏交流新時代―新千歳‐ヘルシンキ線就航に向けて フィンランドの日本食材店オーナー 冨田 憲男さんに聞く
冨田さんを日本で知る人は多くはない。ただし、フィンランドではよく知られた存在だ。昨年12月のテレビ朝日の「陸海空地球征服するなんて」なるバラエティ番組で「フィンランド地元民に聞く最も有名な日本人は誰か」というアンケートが行われ、結果は以下の通りだった。
1位 葛西紀明(スキージャンプ) 66票
2位 ツルネン・マルテイ(元政治家) 28票
3位 村上春樹(作家) 22票
4位 黒澤明(映画監督) 21票
5位 羽生結弦(フィギュアスケート選手) 20票
6位 舘野泉(ピアニスト) 19票
7位 田中亜土夢(サッカー選手) 15票
8位 小田二郎(鮨職人) 11票
9位 冨田憲男(経営者) 10票
10位 高梨沙羅(スキージャンプ) 9票
と、母数は少ないものの高梨選手を抑え堂々の9位。
冨田さんは1986年からフィンランドに在住。80年代後半から日本食食材店を経営し、日本食材をヘルシンキ市を拠点に広げてきた。昨年、日本食・食文化の魅力を発信してきた功績が認められ「日本食普及の親善大使」として農水省から表彰を受けた。その他、日本とフィンランドとの相互理解への尽力が認められ、平成29年度外務大臣表彰者(個人)も受賞している。
また、ヘルシンキ近郊にはフィンランド人が桜を愛でながら日本文化を学ぶ「桜祭り」が行われている公園がある。その「桜」の仕掛人が冨田さんだった。当時フィンランド日本人会会長であった冨田さんは2006年に「フィンランドで花見を」の思いをフィンランド在住の日本人に提案。提案が支持され様々な人たちの協力を得て、2007年にはヘルシンキ市から認可が下り、無事桜の成木約150本が植樹された。2017年にはフィンランド独立100年を記念し新たに10本の桜が植えられ、今年は北海道から種子を輸入しフィンランドの研究所で育苗されてきたエゾヤマザクラが植えられる。今では花見時期に3万人以上、そのほとんどがフィンランド人という一大イベントに成長した。過去のイベントでは会場となるヘルシンキ市内のロイフヴオリ公園で和太鼓や武術の演武、本格的な今川焼を提供したこともあった。
フィンエアーで北海道とヘルシンキが結ばれることについて、現地の事情に明るい冨田氏に話を伺った。
――フィンエアーで北海道とヘルシンキが12月からつながりますが
冨田氏―非常に良いこと。人的交流が増加するのは当然、経済活動の活発化も期待できる。渡航時間短縮は忙しいビジネスマンには大きなメリットとなる。
――特に北海道ということでいえば、具体的にどのような利用が期待できますか?
冨田氏―例えばここ数年の寿司ブーム。従来中国人やネパール人のお店で安く食べることができたが、最近日本人の職人が進出し「ヘルシンキで比較的本物志向の寿司が食べられる」ということで差別化に成功している。日本のコメを輸入しており、その分高いがおいしいと評判だ。昨年は50トンのコンテナ3本輸入している。その店には昨年前桜田五輪相も来店し、絶賛していた。寿司のネタなどに関しては輸送時間の短縮で生のものが提供できる可能性が出てくる。EPA発行も追い風になる。
――北海道米も特Aランクのお米があります
冨田氏―コメは船便。コストがかかりすぎると、商売にはならない。前にある県の特産品の売り込みを受け、地元の食通を集め試食物産展を行ったことがある。リンゴやニンニクやホタテを売り込んだが、結局流通コストを上乗せしたら全く売れなかった。試食では皆美味しいというが、1個10ユーロのリンゴを買う人はいない。北海道のからの空輸便で流通コストを上乗せして、尚且つ売れるものを探さなければならない。マーケティングは絶対に必要。「特産品だから売りたい」は通用せず「売れるものを探す」から始めなくては商売にはならない。道産米もいいでしょう。北海道から船便で米を50トン送りたいという希望があれば、お手伝いする。
――北海道の企業や食産業関係者がフィンランドに進出したことはありますか
冨田氏―自分の知る限りはない。一度、西山製麺さんの相談を受け、こちらで試食会をしたことがある。冷凍麺だったが、非常に好評で「ぜひこのラーメンが食べられる店を」とまで言われた。西山製麺さんはラーメン店の経営はしていないということで、話は立ち消えになったが、ラーメン出店のポテンシャルはあると思う。ヘルシンキにもラーメン店はあるがほとんど中国人が経営していて、本場のものとは言えない。西山さんはドイツにも麺を出しているはず。日本3大ラーメンの一つ本格的な札幌ラーメンは歓迎されるはず。
――芬日国交樹立100周年ですが、日本人会では何か考えていますか?
冨田氏―日本とフィンランドの国交100周年を記念し、浜松フィンランド協会が同国にみこしを寄贈する。5月18日にはヘルシンキで、現地住民とみこしを担ぎメインストリートを5Km練り歩くお披露目イベントを開く。みこしは群馬県の宮大工に依頼して作った本格的なもの。イベント後には国立博物館にも展示され、終了後は寄贈する予定。今はその準備でてんてこまいだ。
―――そのほか最近のフィンランドの話題を。
冨田氏―週末に国政選挙があり社民党と真のフィンランド党の議席争いが注目されている。移民排斥を謳う真のフィンランド党が議席を伸ばすと予想され、右傾化が気になっている。あとは、8月に皇室が来芬する予定。その時期にメルケルさんが退陣し、新EU議長も決まるので大使館は対応に追われるだろう。また、無印良品がヘルシンキに欧州旗艦店を出店する予定だ。ロンドン、パリではなくヘルシンキにというところが、ミソで北欧デザインに親和性を見出したのだろう。
――最後に「東京館」の売れ筋商品は何ですか?
冨田氏―キューピー深煎りごまドレッシングが不動の一番。あとはフィンランド人の調理人が和包丁をよく買っていく。
――ありがとうございました。
冨田氏―北海道からたくさんの方々が来ていただくことを期待している。
◆【4】北方圏交流新時代―新千歳‐ヘルシンキ線就航に向けて ヨンネ・レヘティオクサ アジア・オセアニア地区 営業統括本部長 フィンランド航空 営業統括本部(以下、レヘティオクサVP)に聞く
調査研究部 森内 壮夫
フィンエアーが、北海道と欧州を結ぶ直行便を冬期間限定で就航する。欧州と北海道がつながるのはKLMの撤退以降実に17年ぶりになる。2019年12月5日から2020年3月27日までの運行で、北海道からの往路便が毎週金曜、新千歳空港を11時半に出発しヴァンター空港に14時に到着。ヘルシンキからの往路便は毎日曜日ヴァンター空港を17時に出発し新千歳空港に翌9時に到着する。実質的には8時間程度のフライト時間を見込んでいるという。以前筆者がエアアジアXで新千歳空港からクアラルンプール直行便を利用した時も8時間のフライトだったが、同じ8時間でヨーロッパに行くことができるとは驚きである。それほどヨーロッパが遠いというイメージが染みついているということだろう。
直行便がどれくらい便利になるのかということを実感するために、筆者は今回の取材で11時成田発のフィンエアーに乗った。朝4時に起き、5時過ぎに家内に空港直行バスの停留所まで送ってもらい、7時に新千歳空港に到着し、8時の成田便に乗り込む。9時半に成田に到着し出国手続きを済ませ11時発のヴァンター空港行のフィンエアーに搭乗。15時過ぎにヴァンター空港に到着するころにはかなり疲労困憊している。ところが直行便では7時起床、8時出発で十分間に合うことになる。旅疲れに見舞われる復路は、往路便以上のメリットをさらに感じるに違いない。忙しいビジネスマンであればあるほど、短いフライト時間の恩恵にありがたみを感じるだろう。
フィンエアーの本社はヘルシンキ中央駅から電車で30分、ヴァンター空港から一駅のAviapolisという駅にある。Avi=鳥≒航空の、Polis=都市ということで、駅一帯にはフィンランド航空の関連企業が集積している。取材当日は日差しが強い晴天で、フィンエアー本社社屋の屋号の文字が青空に白く映えていた。
今回、北海道就航を実質的に決定したといってもよい、ヨンネ・レヘティオクサ アジア・オセアニア地区 営業統括本部長兼ヴァイス・プレジデント(VP)には、超多忙なスケジュールを無理して時間を作っていただき「北海道は、これからの大切なパートナーなので」ということから30分だけという約束で取材に応じてくれた。フィンエアー東京支社は彼の管轄となる。
―――お忙しい中、お会いしていただきありがとうございます
レヘティオクサVP―こちらこそ。北海道からようこそ。歓迎する。私も先週東京から戻ったばかり。北海道の直行便就航準備で忙しい。ただし、北海道は特に大切なパートナーだ。ご足労感謝する。
―――ヨンネさんはアジア通とお聞きしましたが
レヘティオクサVP―私は中国エリアのマネージャー時代に香港に3年住んでいたことがある。日本には何度か訪問したことがあるが、長期間住んだことはない。フィンエアーにとって、アジア、特に日本は最も有望なマーケットだ。フィンエアーと日本の関係は1983年にヘルシンキ―東京便を飛ばした時が始まりだ。以来、95年に大阪、2006年に名古屋、16年に福岡と路線を拡大してきた。フィンランド人は日本人と気質的に似通うところがあると、常々感じている。
―――日本就航便を拡大する理由は?
レヘティオクサVP―日本は売上高や旅客数で、フィンエアーにとって本国フィンランドに次いで2番目の市場だ。昨年5月以降は成田―ヘルシンキ線が1日2便体制に拡大。関西、名古屋、福岡の発着分も合わせると、日本とヘルシンキを結ぶ路線が週34便(注・最大便数は夏スケジュールの間のみ)となり、ルフトハンザドイツ航空やエールフランス航空などを押さえ、欧州エアラインとして日本路線の最大手となっている。
―――そこに北海道への就航ということですね
レヘティオクサVP―北海道便にはいろいろな可能性があると考えている。一つは、今や全世界のスキーヤーを虜にしているパウダー・スノーだ。フィンランドにもスキー場はあるが、一度北海道でスキーを体験すると、北海道に何度も行きたくなるという地元スキーヤーの話を聞いた。フィンランドに限らず、ヴァンターを経由するヨーロッパすべてのスキーヤーが歓迎する路線だ。特に北欧すべてと英国には期待している。北海道POWDER SNOWは今やマジック・ワードとなっている。「ニセコでスキーを」というのが欧州のスキーマニアの合言葉だ。札幌雪祭りとも就航期間が被るし、アウトバウンドの可能性は準備段階からある程度手ごたえを感じている。
―――17年ぶりの欧州直行便に道民も歓迎ムードです
レヘティオクサVP―成田便は一度北上し、札幌上空を超えてハバロフスク方面に進路をとる。札幌から成田でフィンエアーに乗る旅行者は、まるまるその航路が重複していることになり、そこを省くことができれば時間の短縮、コストダウン、環境へのインパクト緩和にもなる。すでに現地(北海道)のツアーオペレーターがいろいろとパッケージングを考えていると聞いている。例えば冬に限れば、ラップランドのオーロラツアーやサンタランドのツアーは世界的に人気が高い。温泉が好きな北海道人はフィンランドのサウナも気に入るだろう。フィンエアーはJALと提携しているので、直行便には日本人アテンダントを配置し、日本人に配慮したサービス、例えば年配の方々が乗客の中にいる場合は時々声をかけたり、大きな声でおしゃべりしていてもそっとしておくなど、日本の文化に配慮するつもりだ。
―――スキーのほかには何かありますか?
レヘティオクサVP―一つは、日本独特の文化だ。日本に滞在することによって、Cultural immersion、つまり日本文化にどっぷりと浸かることができる。日本風の宿に泊まり、昼はスキーを楽しみ、スキーから帰ってきて雪見温泉に浸かり、夜はに和食を食べながら日本酒を楽しむ。これは日本以外、いや北海道以外ではなかなか楽むことができないだろう。
―――北海道には北海道フィンランド協会他、北方圏地域と地道に交流を続けている団体や個人がたくさんいます
レヘティオクサVP―非常に心強いし、そのような地元の方々を通してAwarenessを啓発していくことが成功のカギを握っていると思っている。地元の方々の力添えがなければ安定的な就航を保つことがむつかしいことは、日本のほかの空港でも経験している。
パイヴィト広報担当―今年の雪まつりで製作されたヘルシンキ大聖堂は国内ニュースでも大きく取り上げられ、映像を見たわ。美しさに感動し、実物を見てみたいと思ったわ。何より、北海道の方々がフィンランドのことを思ってくれていることがとても嬉しい。
―――シビアなことを聞きます。成田・大阪はビジネスマン、旅行者、中部はトヨタという巨大企業城下町、福岡も旺盛な旅行需要がある土地柄と成功のキーとなる要素があります。一方、北海道は他地域と比較し経済基盤が強固ではないという地域特性がありますが。
レヘティオクサVP―マーケティング済みだ。まずは試さなければ何も始まらない。今までも色々な障がいがあったが、乗り越えてきた。リーマンショック時や震災の時にも乗客が減ったが、撤退ということは考えなかった。一度その地に飛ばす決定をしたら、何とか頑張るしかない。北海道は勿論だが、例えば東北エリアの需要も若干は見込めるのではないかと思っている。特に新幹線が開通すれば、東京に下って長いフライト時間を選ぶか、札幌に北上して短いフライト時間を選ぶか。運賃が安ければ後者を選ぶ可能性が高いだろう。もちろんビジネスだからすべての選択肢を排除することはできないわけだが。
―――ずばり、運賃はどれくらいを想定していますか
レヘティオクサVP―この業界では「運賃ほど予測不能なものはない」とよく言われる。価格は需給のバランスで決まるので、ハイシーズンとそうではない時期の差が出るのは仕方がない。クリスマスシーズンが高くなってしまうのは仕方がないが、今思いついたのは600~700(約77,000円~約90,000円)ユーロを考えている。あくまで自分の頭の中の話だが。
―――私が今回利用した便は大体1,000ユーロですので、それに比べかなりお得感がありますね。自分の肌感覚だと10万円を切ってヨーロッパというのリーズナブルなイメージがあります。
レヘティオクサVP―新千歳から成田、成田から新千歳の国内移動費がかからないわけだから、当然ある程度のコストダウンは可能だ。10万円以下には押さえたいと考えている。ただし、何度も言うがハイシーズンは運賃がぐんと上がるだろう。
―――最後に新規就航にかける意気込みを
レヘティオクサVP―ヘルシンキは日本から一番近いヨーロッパということをことさら強調したい。それが「北海道」からだとさらにその距離、移動時間を短縮できる。つまり、成田空港よりも近い。すなわち日本で最もヨーロッパに近いのが北海道ということになる。まずはその認識を広めていきたい。使用機材はエアバス330を予定しているが、静粛性に優れ旅行者に配慮した、利用者が疲れにくい機材だ。一時間に何度も換気を行うので、ジェットラグが軽減される。まずは、ぜひ一度は直行便を利用してフィンランドに来てほしい。また、ご存知の通り日本にとってはヴァンター空港はパリのシャルルドゴール空港に次ぐヨーロッパのハブ空港(注・日本からヨーロッパの間の夏スケジュール期間)で、無数の乗継便がある。ヨーロッパそのものが近くなる、そういっても過言ではない。滑走路が3本、ターミナルも2つあり、短い乗り継ぎ時間、最短で35分あればスムーズにトランスファーできる工夫がされているので、旅行ストレスが圧倒的に少ないのも魅力だ。(注・他空港と違い1つのターミナルで乗り換できる利便性が特徴)、(注2・3つの滑走路を備えているので上空で待機することが少なく無駄な遅延を回避可能にしている)
パイヴィト広報担当―現在ターミナル2を大規模改修中で完成すれば、さらに利便性が向上するわ。日本語表記も増える予定で、英語が苦手なパッセンジャーにも利用しやすくなる予定。
レヘティオクサVP―百聞は一見に如かず、是非一度はご利用を!
―――新しい知事が誕生しました。ぜひ北海道にお運びください。
レヘティオクサVP―ぜひそうしたい。次回は北海道で会おう。
パイヴィト広報担当―ヘルシンキ滞在中、是非サウナを楽しんでいってください。
忙しい時間をかなりオーバーして対応いただいたレヘティオクサVPから感じることができたのは、北海道便にかける並々ならぬ思いだ。北海道民として、その強い思いを受け止め、その思いに応えたい。
インバウンド客の数的拡充による経済効果のみに傾注すると、重要な相互交流の側面が抜け落ちる。インバウンド客の数値目標を達成する一方で、サービスの向上、旅行体験の質的向上を目指さなくてはいけない。フィンランドを含むヨーロッパからの旅行者に求められるのは、「多少料金が高くても上質な旅行」という印象を受けている。極端に言えば「安かろう悪かろう」の路線の逆を追求することが、欧州客を引き寄せ、定着させるカギのような気がする。パーキャピタインカムが日本や近隣アジア(※シンガポールを除く)の上を行く欧州の潜在的な旅行者には、アジア近隣からの団体旅行者とはある意味差別化を図る戦略も必要になるであろう。ニセコ地域ではある程度クオリティが高い旅行が期待できるが、すでに飽和状態だ。以前アルペン競技のワールドカップが行われ、雪質もニセコ以上に上質な富良野エリアなどが今後のインバウンドスキーヤーの目的地になる可能性が高い。
さらに、インバウンド誘客のみに固執してしまうと、アウトバウンドが疎かになり持続的な互恵関係を築くことは困難になる。互いの目的地同士が相思相愛でこそ交流人口のバランスが保たれる、とレヘティオクサVPが強調していたとおりである。
取材を通して、北海道サイドはフィンエアーが飛ばす欧州とのダイレクト・フライトによる種々の可能性の広がりを盛り上げ、周知し、潜在的なアウトバウンド客へのリーチを拡大してゆくことが重要だと感じた。まずは、「ヨーロッパが近くなる、そして安く行くことができる」ことの徹底周知を官民挙げて行い、オール北海道で就航を盛り上げてゆきたい。
◆【5】-1北方圏交流新時代―新千歳‐ヘルシンキ線就航に向けて 北海道とフィンランドの様々な交流
北海道とフィンランドとの交流は多岐にわたる。すべてを網羅的に掲載することは困難であるが、自治体間交流、学術交流、先住民族間の交流、民間交流について若干触れたい。
≪1.自治体間交流≫
道内にはフィンランドの自治体と友好提携している町がふたつある。奈井江町=ハウスヤルビ町、壮瞥町=ケミヤルヴィ市だ。
【奈井江町とハウスヤルビ町】
奈井江町は開基50周年を記念し1994年に「健康と福祉の町」を宣言。背景には、もともと住友奈井江鉱などの石炭産業が街を支えていたが、70年代後半から急激に斜陽化。労働人口が町から激減し、残された町民の高齢化に対応すべく、健康・福祉政策に町政の軸足を置くことに決定した。厚生労働省(当時)から福祉政策先進自治体として紹介されたハウスヤルビ町に医療福祉関係者を派遣し、相互交流が始まる。95年に北良治町長(当時)がハウスヤルビ町を訪問し、友好都市提携に調印。96年から計8人の町職員をひと月ずつ送り込み、保険・福祉・医療の分野で研修を重ねた。ハウスヤルビ町からも町長や医療福祉分野の人材が来町し、研修などを通じて福祉交流を続けてきている。北町長はハウスヤルビ町との交流などから着想を得て、1998年には歌志内市、新十津川町、上砂川町、浦臼町、雨竜町と連携、空知中部広域連合を結成して介護保険事業を行うことを提案し、実現させた。1996年に設置された巨大なログハウスの道の駅は「ハウスヤルビ奈井江」と命名され、今でも交流のシンボルとして利用されている。
【壮瞥町とケミヤルヴィ市】
1990年初頭に壮瞥町の民間事業者が「サンタ村」を町内に建設する構想を立て、本場フィンランドから公認を得るための調整中に、フィンランド政府から「フィンランドの何処かの自治体と壮瞥町との自治体交流を」との提案を受ける形で交流が始まった。サンタ村の建設は実現に至らなかったが、1993年に友好都市宣言の調印が行われ、町発祥の「雪合戦」の選手相互派遣交流、そして町内の中学生を在校中全員ケミヤルビ市に派遣する事業は現在まで継続している。特に生徒派遣事業では「小さな町でも子どもたちに夢を」の合言葉のもと、人材育成の一環で、2018年度までに654人の中学生をケミヤルビ市に町費で派遣しており、教員や引率者を含めると実に800人を超す町民がケミヤルヴィ市を訪れている。壮瞥町の人口が約2,500人なので、単純に計算すると町民の3分の1が過去にケミヤルヴィ市を訪問したことになる。
派遣事業に参加したことがきっかけで、中学校卒業後の進学先としてケミヤルヴィ市内の高校を選んだ生徒が昨年誕生した。2016年中学校2年時に派遣事業に参加し、派遣中に留学の思いを強くした小田すみれさんだ。現在、派遣中のホームステイ先だったホストファミリーに身を寄せ、ケミヤルヴィ市の高校に通っている。今回のフィンランド訪問では小田さんに直接会うことはできなかったが、メールを通じて取材することができた。以下、一部掲載する。
―――どうしてケミヤルヴィ市の高校へ?
小田さん―絶対にケミヤルヴィ市で学びたいと強く思ったのは2016年夏、14歳の時、壮瞥町のフィンランド国派遣事業で初めてこの国を訪れた時です。穏やかな人々、壮大な自然。ここでなら思いっきり学びたいことを存分学べると思いました。
教育、福祉、男女平等、どこをとっても世界トップクラスのフィンランド。2018年、2019年連続で世界幸福度ランキング1位を獲得しています。国民が幸せだと感じるこの国で、現地の方と生活することによって、その「幸せの鍵」が見つかるかなと思ったのもこちらに来たかった理由の一つです。
「中学卒業後にすぐ」という選択は、やりたいと思ったらすぐ取り掛かりたい性格なので。フィンランドの高校に進学したいと思った時から、日本の高校への進学は考えられませんでした。(笑)
ただ今思い返すと、この選択は本当によかったなと思っています。この年齢で家族から離れて海外で暮らすことで、世界がとても広がりました。考え方にしても将来の夢にしても日本にいたら、また違っていると思います。
―――実際にケミヤルヴィ市の高校に行ってみて感想はどうですか?
小田さん―フィンランドでは高校は3年で卒業すべきという考えもなく、3年半或いは4年かけてアルバイトや専門学校と両立しながら卒業する生徒もいます。授業は大学のように選択制で自分の興味のある分野を中心に学びます。現地の生徒も個人個人の個性を大切にする国の教育を誇りに思うと言っていました。また「エコで時代にあった学びを効率よく」という考えの基、電子化によるが進んでいます。私は教科書、ノート、試験、すべてパソコンを使用しています。
他方でフィンランド人の友達から日本の教育も良いという話も聞きました。毎日のホームルーム、学校祭や部活等集団で過ごす時間が多い日本の学校に対して、ここではそのような活動がほとんどなく、クラスメート同志の繋がりが薄いように感じます。勉強だけでなく、人間関係、集団の中で生きていく事を学ぶ点は日本の学校教育の特徴なのかなと思います。
フィンランドで生活するにあたり私にとっては言葉(フィンランド語)が一番大きな壁です。まだまだですが、フィンランド人同等の語学力を目指して頑張ります。
授業料は基本小学校から大学まですべて税金で賄われています。
―――お友達はできましたか?
小田さん―はじめの2か月ほどは、フィンランド人も私もシャイでなかなか話しかけることができずにいましたが、今では一緒に遊んだり勉強したりできる友達もたくさんできました。
滞在先はホームステイです。ホームステイすることは留学前から心待ちにしていたことの一つです。とても心温かい家庭で、私を優しく歓迎してくれました。クリスマスは家族と一緒に過ごす一年で最も大切な行事で、昨年のクリスマスにホストファミリーと時間を共有できたことは私の特別な宝物です。
―――ケミヤルヴィ市に日本人はほかにいますか?
小田さん―以前は3人でしたが、現在ケミヤルヴィ市に住んでいる日本人は私一人だと思います。
―――勉強はいかがですか?
小田さん―勉強は難しいです。言葉もあまり話せないまま渡航してしまったので、新しい言葉で新しいことを学ぶということに苦労しています。先生方が授業時間や放課後に補修の授業や私のために問題を用意してくださり、かろうじて授業についていくことができています。
―――お休みの日は何をしていますか?
小田さん―最近は休みの日に、趣味の楽器演奏や料理をする時間が増えてきましたが、まだやはり勉強に費やす時間が多いです。冬季はクロスカントリースキーやスケート、寒中水泳も楽みました。クラスメートのお父さんが柔道の先生で、こちらに来て柔道もはじめました。
―――フィンランドと北海道、似ているところなど印象は?
小田さん―まず、どちらも積雪寒冷地域ですね。フィンランド人によく、「すみれは日本から来たから雪を見るのは初めてでしょと?」と言われますが、雪遊びが大好きな道産子ですから。(笑) ただラップランドの寒さは、壮瞥町の寒さと比べ物にならなく、夏の8月に6度まで気温が下がることもあり、冬季はマイナス35度近くの低温を体験しました。そして日が沈まない白夜と日中でも薄明か、太陽が沈んだ状態の極夜があるのも大きな違いです。1日中暗い冬は嫌だという人が多いですが、私はこの時期も好きです。家の庭からオーロラを眺めるのは至福のひと時です。
似ているところをもう一つ挙げるとするとは先住民族だと思います。ラップランド地域の先住民族であるサーミ族はアイヌ民族と歴史的にも似ているところがあり、アイヌ民族のことを知っているフィンランド人は多いように感じます。
―――ケミヤルヴィ市で壮瞥町に訪問したことがある人とお会いしましたか?
小田さん―はい。以前壮瞥町でALT(英語補助教員)として勤務していた方や雪合戦の大会に参加した方、数年おきのケミヤルヴィ市の訪問団で壮瞥町に訪問した方々などにお会いしました。みんな歓迎してくださいました。
またケミヤルヴィ市には「MENDOKUSAI-めんどくさい」というアマチュアのバンドがあります。親日家の若者で構成され、日本の曲も演奏しています。彼らは2度壮瞥を訪問しています。
―――ケミヤルヴィ市では雪合戦の大会は行われていますか?
小田さん―はい。毎年4月の上旬にヨーロッパ選手権大会が開催されます。2年前に観に行きましたが、自分の故郷である壮瞥町発祥の雪合戦を何千キロも離れた国で、多くの人々が楽しんでいる姿を見て感動しました。スポーツに言葉は必要ありません。より多くの方に楽しんでいただければと思います。(今年は4月5日~7日に開催されました)ちなみに昨年は昭和新山国際雪合戦大会の第30回記念だったのでケミヤルヴィ市からのチームも壮瞥にやってきました。
―――フィンランドの食事で好きなものは何ですか?また、日本の食事で懐かしいものは何ですか?
小田さん―友達のお母さんは料理が得意で、彼女とおしゃべりをしながらフィンランド料理を作ることが好きです。特にクリスマスパイやサーモン・スープ、カレリア・パイが好きです。一方で、日本の食文化の奥深さ、多様さはこちらに来て深く実感しています。懐かしい食べ物はたくさんありますが、なかでもおばあちゃんの作る梅干しや栗ご飯が恋しいです。
―――フィンランドの高校生で流行っていること、日本の文化で注目されていることはありますか?
小田さん―漫画やアニメ、ゲームは人気がありますね。アニメから日本語を覚えたという友人も数人います。また、面白いところではホストファザーは日本の文房具が大好きで愛用しています。
―――高校卒業後の進学は?
小田さん―現時点では高校卒業後、フィンランドの大学への進学を考えています。将来は両国の建築を学び、フィンランドと日本をつなぐ建築士になるのが夢です。2019年の夏季休暇に一時帰国を予定しています。
―――壮瞥町、北海道、日本の高校生にメッセージがあれば
小田さん―今一番思うことは、なんでもやってみないと分からないということです。無理だと思わないで本気で夢を追いかけてみないと。私も中学1年生の頃まで、普通に道内の高校に進学して大学に進み、就職するものだと思っていました。それがあるときフィンランドという国に出会い、その2年後にその国の高校生になりました。実際にフィンランドの高校生になってみて、日本にいた頃の当たり前が覆される日々です。
言葉も文化も違う国で生活することは、楽しいことだけではありませんが、どんなにきつくても、今ここで学べることに感謝でいっぱいです。今は、通学路の風景、友達からのメッセージ、一杯のココア…、日々の小さなことが美しく感じられ、しあわせで毎日のエネルギーになっています。いつ何がきっかけで人生がどう転がるかはわかりません。様々なことに挑戦することで扉が開けることもあるでしょう。何事も無理だと思わず、まず挑戦してみることが大切だと思います。
もちろん、日本の高校でしか学べないこともたくさんあります。今を楽しんでください。一緒に頑張りましょう。
―――ありがとうございました
小田さん―ありがとうございました。
※写真は全て小田さんから提供いただきました。
◆【5】-2北方圏交流新時代―新千歳‐ヘルシンキ線就航に向けて――北海道とフィンランドの様々な交流――北海道フィンランド協会会長 井口光雄さん(HOPPOKEN誌165号・国際交流貢献者列伝から転載)
≪2.民間交流≫
北海道とフィンランドの民間交流の礎はたった一人の人物の思いによって築かれたといっても過言ではない。その人物が北海道フィンランド協会会長の井口光雄氏だ。実際、今回の取材でも井口さんにアドバイスをたくさんいただいたし、現地で会う人会う人に「Mikko(井口さんのフィンランドでのあだ名)は元気か?」と尋ねられた。井口さんとフィンランドのなれ初めなどについてハイエック吉村慎司研究員(現・客員研究員)がHOPPOKEN誌165号(2013年・秋号)に書いた記事がある。井口さんを知るには最も優れた資料だと思っており、以下記事を転載する。
*******************************************
【HOPPOKEN165号 国際交流貢献者列伝―北海道フィンランド協会会長 井口 光雄】
ハイエック研究員 吉村 慎司
新たな連載となる本シリーズでは、北海道の国際交流に貢献してきた民間人の功績を記すこととする。初回は、北海道フィンランド協会の井口光雄会長(79)を紹介する。
「来秋、知事にフィンランドへ行ってもらいたいのですが」。1974年の秋、道庁の一室で井口光雄氏は知事室長と向き合っていた。まだフィンランドとの交流団体が存在しないころである。当時の井口氏は、映像制作会社を立ち上げて3年目の、一民間企業経営者だった。
実現しようとしたのは,翌秋ヘルシンキで開かれる「フィンランド日本協会」の創立40周年記念式典に、北海道の代表として堂垣内尚弘知事に出席してもらうことだ。この協会は第二次世界大戦前、日本渡航経験のある宣教師グループや貿易業者らがつくった民間交流団体だった。実は73年に、この団体が受け入れ窓口となって、北海道内の青年視察団がフィンランドでのホームステイを体験していたのである。井口氏は会社経営と並行して、この青年視察を企画した松坂科学文化振興財団(現在の財団法人北海道青少年科学文化財団)の理事を務めていた。
青年視察のやりとりの中で、協会側から、40周年式典に道内の要人を招きたいとの打診を受けていた。折しも北海道は堂垣内知事の旗振りで、北欧など寒冷地の暮らしを学びながら相互の社会を発展させようとする「北方圏構想」を打ち出している。フィンランドとの交流は大いに構想の趣旨に沿う。両地域の結びつきを太くする絶好のチャンスと考えた井口氏らは人脈を辿って道庁に働きかけ、知事室長との面談にこぎつけた。
後日、知事室から井口氏の元に連絡が入る。「知事は渡航に前向きだ。だが来年の話でもあり、調整をさせて欲しい」。翌75年の春になって、渡航が正式に決まった。フタを開けてみれば知事は南米の北海道人会を訪ねる用事もあり、南米から北欧に飛ぶという異例の行程だった。
そして9月10日、知事はノルウェーを経て、現地時間の夕刻にヘルシンキ空港に降り立った。先に現地入りしていた井口氏は、関係者とともに空港で知事を出迎えた。「奥様を連れて到着した堂垣内知事の顔を見て、こんなに遠い北の国まで本当に来てくれたんだと胸が熱くなりました。仲間内では、冗談半分ですが本当に大丈夫なのかと言い合っていたくらいでしたから」と振り返る。
◇
井口氏が初めてフィンランドに関心を持ったのは、北海道放送(HBC)グループで記者として働いていた1968年、フランス・グルノーブルで開かれた冬季オリンピックの取材を通してだった。系列のJNN取材チームの一員として現地に渡航。このとき北欧には行っていないが、ノルディックスキーなど主要種目で強豪選手がいることで、フィンランドの存在が強く印象に残った。翌69年、別のテーマで欧州を取材した際にヘルシンキに立ち寄ったのがフィンランドへの初入国となった。
縁はここで終わらなかった。70年の大阪万博で、北欧5カ国が共同で「スカンジナビア館」を設置。万博が終わった後、不動産会社経営の松坂有祐氏を中心に道内の数社が協力してこのパビリオンを石狩市(当時は石狩町)に移設することになった。このときにHBC内で担当者として白羽の矢が当たったのが、井口氏である。
フィンランドとの交流に本格的に取り組むようになったのは、文化振興財団の理事として、青年視察団の北欧派遣を企画したのがきっかけだった。自らペンを取って北欧諸国の主要市に手紙を書き、唯一返事が来たのが、フィンランドだった。ヘルシンキ市宛で出したが、返信者の名前はフィンランド日本協会となっている。協会の存在を知ったのはそれが初めてだった。協会が受け入れ団体として全面的に協力してくれたおかげで、73年10月、40人の若者を連れて行くことができた。「ほかの国にも寄りましたが、フィンランドはホストファミリーを始め大勢が空港で出迎えてくれるなど、ほかとは対応が違いました。参加者の多くが、フィンランドに好印象を持ったと思います」。ここでできた現地の人との関係が、2年後に知事を動かすことになる。
◇
井口氏の人脈と行動力が、対フィンランド交流を発展させたのは誰もが認めるところだ。井口氏は1934年に東京・神田で生まれた。育ったのは疎開先の新潟で、県内の高校から北大に進学する。恵迪寮で生活した教養部時代、「周囲におだてられて」自治会委員長に立候補し当選。卒業後はニュースを取材するHBC子会社に入り、札幌や旭川で記者、ディレクターとして活動した。
72年に独立し、映像や展示物の製作を手がける会社「現代ビューロー」を立ち上げる。経営者として、アイヌ民族博物館や札幌市青少年科学館の展示空間を始めとする数々の実績をつくる一方で、文化振興財団をベースに対北欧交流の活動も展開。「当時は北方圏構想が非常に盛んに語られていた時期で、私は伊藤隆一先生や辻井達一先生たちの後ろにくっついていただけ」という自己評価とは別に、民間交流のキーマンとなっていった。
◇
堂垣内知事のフィンランド訪問により、いくつかの流れが生まれた。一つは札幌医科大学とヘルシンキ大学医学部の研究交流である。知事が学長との面談時に提案。青少年訪問団受け入れのスポンサーになったパウロ財団もバックアップし、77年に提携が実現する。40年近く経つ今も、研究者の交流が続いている。
もう一つがクロスカントリースキーを日本に紹介することだった。今村源吉・道教大教授の取り計らいもあって、グリーンランドを横断した探検家でもある競技指導者エリキ・ピヒカラ氏を、ヘルシンキで知事に紹介した。知事はスキー愛好者でもあり、「歩くスキー」を道民に広めることに強い興味を示した。その場で、道としてピヒカラ氏を招聘することになり、これは半年後に実現することになった。
さらに、交流団体の設立も知事訪問が直接の契機になった。フィンランドに日本協会があるのに、北海道にはそれに相当する団体がない。事実上知事に促される格好で、76年10月に北海道フィンランド協会が発足する。井口氏は当初理事だったが、79年に専務理事に就任。2007年から現在まで会長を務めている。フィンランド野球「ペッサパロ」の普及活動、先住民族であるサーミ民族とアイヌ民族の交流事業など、フィンランド協会のこれまでの実績は数知れない。発足翌年から始まったフィンランド語講座は途中2年を除いて毎年開かれており、近年では安定的に50人前後が参加している。
◇
「皆さんは7人の侍です」。今年5月、井口氏は北海道フィンランド協会の事務室で、集まった7人の理事に語りかけた。交流の顔として活躍を続けてきた井口氏だが、70代も最後の1年に入る。3年後には協会は40周年を迎える。いつまでも〝井口のフィンランド協会〟ではいけないと、組織の運営体制を思い切って変えることにした。各理事の役割を明確にし、これからやるべきことを話し合った。「そうすると、皆やる気を持って動いてくれるようになりました。もっと早くこうすればよかった」。フィンランドと北海道の交流を担う後継者が、続々と出てくるに違いない。
◆【5】-3北方圏交流新時代―新千歳‐ヘルシンキ線就航に向けて 北海道とフィンランドの様々な交流 3.学術交流
≪学術交流≫
フィンランドの大学と学術連携している北海道の大学は複数存在する。一例をあげると北海道大学が2012年からヘルシンキ大学内に欧州ヘルシンキオフィスを設置し、ヘルシンキ大学、オウル大学、ラップランド大学、アールト大学、トゥルク大学、東フィンランド大学と大学間の連携協定を結んでいる。東海大学札幌キャンパスの国際文化学部地域創造学科は北欧・北方圏研究の専門を置き、ラップランド大学との共同研究を進めてきた。星槎道都大学もラップランド大学と1997年に姉妹校提携を結び交流が盛んだ。そんな中でフィンランドの大学間連携で最も歴史が古く、先駆的な学術交流を進めてきたのは札幌医科大学であろう。
札幌医科大学は様々な国の大学と国際学術協定を結び、国際的に医学の研究を進めてきている。その中でも一番早くに交流協定を結んだのが、ヘルシンキ大学とのもので、その歴史は1975年にさかのぼる。堂垣内知事(当時)が北欧諸国を歴訪した際にヘルシンキ大学と札幌医科大学間での研究者交換など学術交流を進めてゆきたい旨話し合いが行われ、当時のヘルシンキ大学長と意気投合した。知事との話し合いがきっかけとなり1977年に札幌医科大学渡邉左武郎学長がヘルシンキ大学を訪問し、研究者交流に関する確認書をヘルシンキ大学エル・アンスト・パルメン学長と交換。翌年から両校の研究者がそれぞれの大学に相互派遣され始めた。1982年にはより学際的な研究をということでヘルシンキ大学に加え、トゥルク大学、オウル大学、タンペレ大学、クオピオ大学に交流校を広げた。その際に各校と提携を結ぶ方法ではなく、それら大学に国際的な学術交流を目的に資金を助成する財団と札医大が医学交流協定書を取り交わし、各大学との研究者相互派遣を行ってきた。2019年までに札幌医科大学からは41人の研究者をフィンランドに送り込み、ほぼ同数の研究者をフィンランド側から受け入れている。そのカウンターパートとなっている財団が、今回取材したパウロ財団である。
パウロ財団はヘルシンキのカタヤノッカという港湾地域でフィンランド独立直後からロシア料理店を営み、海運景気の波に乗り一財を築いた富豪、エストニア出身のレコ・パウロの妻ホゥルダの遺言により設立された、主に医学と芸術を助成する財団組織。現在は年間予算の50㌫を医学に、経済学、芸術にそれぞれ25㌫ずつ配分し、若手の研究者や芸術家の育成を行っている。財団は1986年から40年近くハイエックの法人会員でもあり、今回長年の会員であることを表彰し感謝状をお送りした。
今回の取材でパウロ財団リスト・レンコネン理事長にお話を伺うことができた。パウロ財団理事長職はヘルシンキ大学医学部長が兼任する名誉職で、取材はヘルシンキ郊外の大きなメディカルタウンの一角にあるヘルシンキ大学医学部長室で行った。
―――理事長になられてどのくらい経ちますか?
レンコネン理事長―1月にヘルシンキ大学学部長になったばかりなので、まだ3カ月しか経っていない。
―――ご専門は何ですか?
レンコネン理事長―糖鎖生物学という領域。一般的には余りなじみがない比較的新しい科学的専門分野だ。新種の薬品開発の基礎になる研究と云えばわかりやすいか。
―――ここは医学部研究棟ですが、この区画一帯がヘルシンキ大医学部関連の建物なのですね。学部長室を探すのが大変でした。
レンコネン理事長―ハハハ。よくここまでたどり着けたね。ヘルシンキ大学は多くの学部が別々のキャンパスに分かれており、ここ医学部があるMeilahtiキャンパスには、大学病院、基礎研究棟、応用研究棟などがある。基礎と臨床をつなぐ研究を戦略的に推進するため研究施設の新設とコアファシリティーの充実化を継続的に行ってきた結果町の一角がメディカルタウンになってしまった。
―――今年の初めにヘルシンキ大学の研究者が札幌医科大学にひと月ほど派遣されていたことをお聞きしました。
レンコネン理事長―Dr. Teppo Variloだね。遺伝性疾患の専門家だ。札幌では遺伝性疾患の地域や国による差異についてFinnish Disease Heritage-a lesson from monogenic diseases in an isolated populationという講演を行ったと聞いている。札幌医科大学とヘルシンキ大を含むフィンランド内の大学医学部で行われている、相互間の研究員派遣事業は非常に有意義な取り組みだと思っている。フィンランドからもこれまでに40人近い研究者が札幌医科大学に研修に行っているはずだ。
―――パウロ財団は1986年来のハイエックの法人会員です。長きにわたり会員でいていただき、どうもありがとうございます。
レンコネン理事長―私も知らなかったが、貴団体とは長いお付き合いになる。恐らくは札幌医科大学とヘルシンキ大学医学部の交流が先に始まり、パウロ財団が医学の研究に助成していたことから、交流自体を後押しすることになったのだろう。パウロ財団はフィンランド人研究員の札幌への渡航費を助成、札幌医科大学は滞在中のフィンランド人研究員の滞在先を確保するという取り決めになっている。札幌医科大学からフィンランドの大学に研究員を受入れる際は、われわれが日本人研究員の滞在費を助成している。当初は大学間で直接派遣していたが、それだとヘルシンキ大学とだけの交流になってしまう。フィンランドの他の大学も札幌医科大学との研究員交流をしたいという声を反映し、財団が札幌医科大学と協定を結ぶ形を取り、財団に登録されている大学と札医大の相互交流を可能にしている。パウロ財団は医学振興が主たる目的の財団であるので、医学研究を行うヘルシンキ大学以外の大学にも助成している。
―――形式的で恐縮ですが、長年の会員であることを表彰させていただきまして、感謝状をお持ちしました。
レンコネン理事長―ハハハ。それは光栄だ。学部長室に飾っておくよ。1979年には堂垣内知事、札幌医科大学学長からもこれまでに何度か感謝状を頂いている。今までHIECCの会員を続けてきたし、これからも長いお付き合いになるだろう。
―――パウロ財団の成り立ちを教えてください
レンコネン理事長―この財団はレコ・パウロの妻ホゥルダの遺言に基づき設立された。パウロは1891年にエストニアで生まれ、後にヘルシンキの港町カタヤノッカにロシア・レストランを始めた。店は大層流行り、パウロとホゥルダは大きな財産を築いた。篤志家であった妻の遺言で、財団が設立され主に医学と芸術振興に基金が有効に活用されている。札幌医科大学との連携は財団の特徴的で歴史的な取り組みの一つだ。
―――医学の他では芸術分野を助成しているのですね
レンコネン理事長―そう。若手芸術家、特に音楽の分野ではいろいろな事業を行っている。最も広く知られている取り組みはパウロ国際チェロコンクールだろう。若手チェロ演奏家の登竜門として知られ、毎年世界中から将来有望のチェリストがヘルシンキに集まってくる。昨年はBrannon Choというアメリカ人が優勝し、彼は最近アメリカのカーネギーホールを満席にさせ話題をさらっていた。
―――お忙しいところ、ありがとうございました。
レンコネン理事長―ありがとう。因みにパウロのレストランはBellevueといって、まだカタヤノッカにある。少々お高いが味はいいので行ってみるといい。
取材当日の夕方にBellevueレストランを訪れた。レストランは観光名所でもある北欧最大のロシア正教会聖堂の裏手にあり、新古典主義建築が立ち並ぶカタヤノッカ地区にある高級住宅街の一角に佇む。店内に入り、仕立ての良い背広姿の男性陣とイブニングドレスに身を包む淑女たちの宴席の横に案内され、ワインとボルシチをオーダーした。薄暗い店内は歴史を感じる調度品で飾られ、重厚感が漂っている。
ウェイトレスの女性に「ここはパウロ財団のパウロさんがオーナーだったとお聞きしました。パウロさんの写真はありますか?」と尋ねた。スウェット姿の東洋人の珍客に奇異の目を浴びせることもなく、その女性はとても丁寧に対応してくれ「これは3年前に発行されたパウロ財団50周年記念誌です。ここにパウロと妻ホゥルダの写真があるはずだわ」と冊子を手渡してくれた。
札幌医科大学との交流特集ページ
パウロ財団が自分が所属する団体の長年の会員であることから、先ほどレンコネン理事長に感謝状を届けたことを伝え、少し会話した。女性は「Bellevueは由緒あるレストランで、パウロ財団関係者をはじめ財界、政界のビッグショット(大物)もよく利用すること、日本には行ったことがないけれどヘルシンキで寿司はよく食べ、美味しいと思っていること」など、他愛もない話を聞かせてくれた。
ほどなくテーブルに届いたボルシチは本場の黒パンと小さなピロシキとたっぷりのサワークリームが添えられていた。30年以上会員でいてくれる財団創始者パウロさんに思いを馳せながら、ジョージア(グルジア)のワインと一緒に美味しくいただいた。
「足で稼ぐIT企業」 ロシアNo.1のネット地図サービス2GIS社
調査研究部研究員 吉村慎司
インターネットの地図サービスといえば日本では米国発のグーグルマップが代表格だろう。だがロシアには、グーグルでさえもその牙城を崩せない超定番がある。「2GIS」(ツージーアイエス)という、同名のIT企業によるサービスだ。スマホの地図アプリダウンロード数では常に国内首位。ロシアのネット利用者のほとんど全員が知っているといっても過言ではない。
人気の秘訣は、情報の多さと新しさにある。例えば地図上の大型商業施設をクリックすれば、各階のフロア地図と個々の店舗情報が出てくる。オフィスビルなら、入居企業の一覧はもちろん、それぞれの連絡先もわかる。また、訪問先が入居している建物に複数の入口がある場合、どこから入るべきかまで教えてくれる。もし急に何か商品が必要になったときには、アプリに商品名を入力すれば、近くの取扱店、その店が今営業しているかどうかなどが表示される。
驚かされるのは、こうした細かな情報が毎月更新されることだ。閉鎖した店なら翌月にはもう表示されなくなる。ロシア人が「ほかの地図サービスは情報が少なくて古いから2GISばかり使っている」と話すのを聞いたのは1度や2度ではない。
これほどの情報収集を可能にするITテクノロジーとは一体どんなものか。2017年12月、シベリア地方・ノボシビルスク市にある2GIS本社でアレクサンドル・シソエフ社長(53)にインタビューする機会を得て、直接聞いてみた。するとあっさり教えてもらえた。まず、ネットで公開されている街情報を分析して地図に取り込むのは当然のこと。それに加えて同社の調査スタッフが絶えず街を歩き、自分の目で現状を確認しているのだという。見た目でわからない企業情報や店舗情報は、本社の専任チームが企業に直接電話をかけて照会する。人の力だったのだ。
本社内でのデータ確認作業の一部を見せてもらった。20代前半に見える男性スタッフが、車載カメラ映像に写る道の様子を見ながら、地図上の信号機の位置、横断歩道の有無などを点検している。同じ階のコールセンターでは、数十人の女性職員がロシア中の企業と会話していた。シソエフ社長は「当社が最も重要視しているのは情報の正確さです。これは言ってみれば宗教みたいなもの」と話す。
2GISは国内に計104の拠点を構え、ロシア全土の主要都市をカバーする。このほか中央アジア諸国や欧州、中東の一部に展開しており、2017年秋時点のサービス対象エリアは計9カ国の338都市におよぶ。全従業員は4000人を超え、平均年齢は26才という。案内された本社オフィスは、若いIT企業らしく壁や机回りに遊び心があふれる飾り付けが見られ、活気に満ちていた。どのフロアも白を基調にした清潔感ある空間が広がり、休憩室や喫茶コーナーも充実している。筆者と一緒に訪問した札幌のIT企業経営者は、「以前視察した米国シリコンバレーの企業にもまったく引けをとらない」と驚いていた。
2GISの立ち上げは1999年にさかのぼる。地元・ノボシビルスク工科大学を卒業したシソエフ氏は90年代、シベリアの電話会社のシステム開発にエンジニアとして携わり、職員向けのデジタル地図をつくっていた。デジタル化した地図はとても便利だったが、見られるのはあくまで職員のみ。広く一般の人にも使ってもらえるデジタル地図を個人でつくろうと考えたシソエフ氏は、ネットが普及していない当時、CD-ROMに地図データを焼いて使用ライセンスを販売した。
珍しさもあって販売先は順調に増え、そのうちあることに気付く。多くのユーザーが、地図上の建物にどんな企業が入っているのか知りたがっていた。ならば地図と電話帳を融合させたサービスをつくれば解決できるのでは、と考えて1998年に試作したのが現サービスの原型だった。ネット地図をベースにした街情報提供サービスと言ってもいいだろう。翌99年1月、2GISのブランド名を付けて仲間とともに事業をスタートした。
サービスはすべての人に無料開放する。利用者が見る画面に広告を表示することで、企業から広告料収入を得るのが主たるビジネスモデルだ。情報の正確さゆえにサービス利用者は伸び続け、2017年秋時点のユーザー数は3500万人強に達している。同社の分析によれば1人平均で毎月35回2GISで調べ物をしているといい、ヘビーユーザーの多さをうかがわせる。最近ではユーザーの検索履歴などをビッグデータにして業者向けに販売しており、これも急成長している。2GISの2017年の総売上高は、前年比で約15%増えた模様だ。
ここまで成功したなら、普通は首都モスクワに本社を移すものではないのか。なぜシベリアに留まっているのか。そう聞くとシソエフ氏は淡々と答えた。「我々のビジネスには政治や中央官庁とのつながりはいらないんです。人材豊富なこの地を去る理由はありません」。むろんモスクワにも支社があって全国CM展開などはそこを拠点にやっているが、それだけのことだという。地元ノボシビルスク市は国際的知名度こそ高くないものの、人口160万人とロシア第3の都市。市内には「アカデムゴロドク」と呼ばれる国内屈指の学術研究の街があり、理系トップレベルとされるノボシビルスク国立大学を筆頭に教育機関も多く、確かに人材に不自由しない。
2GISのあり方は、日本の地方企業にとっても参考になるのではないだろうか。
(了)
※2018年1月7日付北海道新聞朝刊経済面「寒風温風」記事をベースに大幅加筆しました。